http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/200607
以下引用
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『時をかける少女』(※ブログ主注・アニメ版のこと)
前作(「ワンピース」)の色眼鏡でしか観れてないのかもしれん。そこは警戒すべきだと自分でも思う。でも、あの「白梅二椿菊図」と「未来の話」がどうにもリンクしてしまって不穏で心穏やかではない。これほどさわやかな映画にこういう気持ちを抱くのも無粋だとはわかっちゃいるけれど。
うまく理屈に落とせないんですけど・・・彼のいう未来って、死後の世界なんじゃないかしら。あるいは人類が死滅してしまったからっぽの大地からやってきたんじゃないかしら。幽霊として。
やっぱり空の青さが抜け切れていない。からっぽな青を見ているようだ。なんか別のレイヤーが絶えず表層を脅かしているような不安を傍らに感じつつ、笑えて、泣ける、そういう映画。「ワンピース」よりは、遥かに美しいけれど、不穏さは引き継がれている。
「未来で待ってる」
もちろん、彼らは待っててくれる。ぼくもいつか、その未来にいくのだもの。
………………………伊藤計劃:第弐位相より
ここで言われている『ワンピース』は、細田守監督映画『オマツリ男爵と秘密の島』http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20050321
のこと。
伊藤計劃氏は映画であれば元の作品を知らずとも観る、という人だったようです。
少し前に、三重で11歳の女の子と二人で、多くの話をした。
その時互いに交換したことは様々あったのだけど、その中で、
ジブリの話に彼女となったときのこと(50代の女性が加わり、自然に共有できる話題になったのだと思う)。
彼女はふとこう言った。
「ねえ知ってる? トトロって死に神なんだよ。サツキとメイは、猫バスに乗る時点でもう死んでるんだって。おばあさんがサンダルをみつけたりしたでしょ? あの時もうメイはもう死んでたんだよ。お母さんが木の上に二人を見て消えたのも、あれって二人は幽霊になってしまったってことなんだって。だからトトロは怖い話なんだよ」
実際、トトロに関するこの話は、全く聞いた(読んだ)ことがないわけじゃない。
googleで検索すればすぐ出てくるだろう。
でも、それを特定の少女の口から聞いたときに、はっとするものがあった。 「怖い話なんだよ」という「説明」を越えているものが、彼女のその語りにはあるように感じた。
身にしみて、わたしもみんなもたくさんの子どもたちも、そして彼女も、そういうことを、本当に本当に分かっている「その感じ」。
彼女のその話の、そのくくられている部分をひも解いて、共有するものがあると思った。
配慮のない返事はいくらでも返せた。
「へえー。そうなんだ」
「そんなことないよ。そういう見方はよくないよ。もっと素直に見ないと」
「都市伝説化してるんだね。子どもは面白いことを考えるね」
「デマだ。サツキとメイが死んでいないのは明らかな作品。大体アニメはファンタジーなんだから、起きないことが描かれるのは当たり前」
「そういう見方もあるかもしれないね。いろんな見方があるからね」
その時、彼女という「一人の少女」と話すということに、本当に集中していたので、そのすべてを言わずにすんだ。
私の親は最も冷や水を浴びせることを言うタイプだった。
子供に対して、一人批評家気取りで、自分の獲得した、自分のためだけの言葉を振りかざし、すべてを一方的に説明してしまう。等身大の、「観ている」という相手のナマの体験を奪い取っていってしまう。長いこと、その影響からか、他人から何かを奪うものの語りしか出来ずに、自己嫌悪を繰り返してきた。彼女から何も奪いたくなかった。
でも結局、彼女の話を聞いて感じた、「それあるよね」というのを、上手く彼女に伝える言葉はみつからなかった。伊藤計劃と同じように、どうしても、一人の少女である彼女に「伝わる」ように、上手く理屈に落とせないのだ。
だから何か、彼女からわたしに向かってくるものがあるのに、上手くそれを、開いていけなかった。
『時をかける少女』がヒットしたとき、
「千秋はまたいつか真琴を迎えにきてくれると思う」
「真琴がまた未来に行くんだと思う。そして二人は結婚する」
「映画の先を想像するのは自由だと思うので、わたしは真琴が未来に行って二人は結ばれたということにします」
「ラストの、「未来で待ってる」という千秋の台詞は、真琴がいつか千秋に会えるということだと思う。」
というようなことを言う女性たちがあまりに多く、結構ショックだったし、怖くもあった。
「千秋と真琴が結ばれる(結婚する)、そうすればハッピーエンドだ」というのは、あの作品の、言わばデジタル化された「世界」の中で、主人公はどう具体的に着地すればいいか、みたいなことを扱っているところに対して、あまりにアナログで無責任な「解決策」、暴力的なんじゃないかとわたしは思うのだけど。でも、結局はそこに作品が回収されてしまう。
千秋はあの不安すぎる青春世界に、わけのわからない謎のぬかるみ、曖昧で存在さえあやふやな異界からやってきた精霊のようなものであって、そんな彼が真琴と同じクラスの少年という肉体、役割、具体的で共感を呼ぶイケメンキャラクタ、を持ったことに大きな意味があったように思う。
幻想の少年が具体的なこと。
彼の語ったあの、曖昧で不安な、何もない獏とした世界である未来。
確固たる、具体的な「未来」があらゆるSF作品では重要視され、語られてきた中で、あの曖昧さ、あの不安さ。
ないかもしれない。
でもギリギリあるということにならないこともない、ぐらいの、未来世界。
存在感さえ揺らいでいる、確信のない、もう今にも消えそうな。
そしてその未来が、真琴が生きている限りたどり着かない世界であること。
あの映画の、「未来が分かっているから今やることを決める」オチが果たしていいのか?というのはともかくとして。真琴は現在世界を放棄して、千秋に未来に連れ去られて結婚したら(映画としてではなく)ハッピーエンドだった、なぜなら二人はベストカップル、あんなに素敵に愛し合っているのだからという結論に、手ごたえを感じる、一部の女性たちのその感じ。
「それ、本当に、あれ見た後にまだ持ち込むの?」
せいぜい、「結ばれないからいい作品なんじゃないかと思う」ぐらいしか言えない無力感。
以前ある60代の男性教授が、「十六になるまで娘にサンタがいることを信じさせてきたのに、愚かな第三者がバラしてしまった。今でも恨んでいる」と授業で言っていた。
でも、むしろ父である教授こそ、娘からファンタジーを奪っていたかもしれないのではないだろうか?
この世界に本当にサンタがいることになるのは、サンタがいないことを知ってからなはずだ。
でも結局、理屈には上手く落とせない。
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