花を買おうかと時々思い、通りすがりの花屋に足を止めるのだけれども、なんやかんや理由をつけて買わないで通り過ぎてしまう。
私の実家は花を飾る家ではなく、祖母は花が好きでよく育てたり飾ったりしていたけれども、私は花を好むとか愛でるとかいう気持ちにどうしても寄り添うことができずに、きれいでしょうと聞かれてようやく、ああきれいね、とか、きれいでない、とかで終わってしまう自分の興味というものの有り様に後ろめたさというか恥ずかしさのようなものを感じていて、そのため自分に花を買う資格なんてないのだとなんとなく思っていた。
子供のころも、将来何になりたいのというのにお花屋さんなどと答えたことはない。でもそれも、子供ながらに、どこかでそう答えることの気まずさというのが自分の中にあったように思う。将来何になりたいのかとしょっちゅういろいろなところで聞かれていたころに、自分が何と答えたかは覚えていないけれども、「小さい女の子はたいていお花屋さんとか言うものだ」ということをまわりの大人たちがポジティブにもネガティブにも適当に語っていたことは覚えていて、私はそういう風当たりから逃れるように、突破できるように、右往左往してきたところが今もあるように思う。ごく自然にお花屋さんと言いたかったという妬みも持っている。
そうして二十代である今となっては、花屋を本当に素敵な仕事であるなあと思うのであって、でもそうした自分の憧れさえ花や花屋には勘違いや思い込みが深く迷惑なのではないかとかすかに思っているところもあり、傷つくことと傷つけることが怖くてなかなか近づくことができないし、関係の糸口をつかむことも難しい。それも自意識過剰であることは十分分かっているつもりなのだけども。
二十歳ぐらいの時に一時期つきあっていた人に誕生日にぽんとテーブルヤシをもらい、私は自分が植物をもらったということに多少盛り上がりもしたけれどやっぱり扱いかねて、なんとなくネットで調べて、とりあえず日中にいくらか光合成をさせるのがいいらしいと窓辺に置いてはみたのだけれども、北国から出てきたばかりの私にとっては想像をはるかに超えていた東京の春の日差しがテーブルヤシを瞬殺してしまったのであって。一応テーブルヤシにはまごまごとあれこれしてみたのだけれども、何をしてももうあからさまにテーブルヤシは死んでいるのであって、それどころか目の前でどんどんぼろぼろに死を深めていくものだから、やがてうんざりしてわたしはテーブルヤシから興味を断った。
いつどうやって捨てたのだかも覚えていない。そのことを相手に言い出そうとも思わなかった。
ちょっと思い返しても実験的に他人で爪をとぐことで、相手ばかりでなく自らも負わなくていい傷を必要以上に負うような、自尊心を失いつづける稚拙で卑屈な日々であったし、底が抜けたような崩壊した生活をしていたあの時期を、正直なところどういうつもりで生きていたのかはっきりとは覚えていないのだけれども、それはともかくとして、見たことがない状態で死んでいるテーブルヤシを眺める深夜に、自分は人にもらった植物さえ大事にできない女なのだと思った。テーブルヤシのその細くて水気を全く失った手触りがただただ物珍しくてずっと見ていた。そんなに悲しくなかったし、ただただ居心地悪く、めんどうくさかった。ああ、またか、という感じがした。それまで植物を枯らしたことなんて一度もなかったけれども。
数年後、想像もしなかった場所を行き来し、世界も価値観も移り変わり、私が過去から継続しているのだということさえも上手く考えられなくなりながら、今年の誕生日はどう過ごそうかと恋人が言ってくれるあるときに、花を一輪リクエストした。恋人に花をもらうことに憧れがあったということはあまりないとは思うのだけれども、どうなのだろう。多少、ありがちとされている出来事の模倣をしようという意図はあったのかもしれないけれど。毎年過ごすうちに互いに分かってくる、誕生日を過ごすということの驚くべき豊潤さの中で、関西の驚くべき春の陽気の中で、ハードルが下がったのかもしれなかった。花束ではなく一輪にしてほしい、もしも買うことが恥ずかしかったりするなら望まない、と言ったけれども、彼は随分楽しんで花を選んできてくれたようだった。なんとなくや間に合わせで選ぶのではなく、これだと思うものを探して買ってきてくれて、いいのがあった、これは自信がある、と、誇らしげに家にやってきたのはピンクの薔薇一輪。
ピンクの薔薇、と言葉にするとありがちなようではあるけれども、生身の彼女は隅々までみずみずしい、生命力にあふれた一輪で、花の大きさも、その茎の長さも、あまりにしっくりとするのであって、花ってこんなに美しいのかと、こんなに自分にぴったりくることがあるのかと。花は女らしさの象徴のようにみなされるけれども、そうではなくてもう薔薇が女にしか見えないわけで。上品な姿のいい若い女の子にしか見えないわけで。
私の部屋に薔薇がいて、生命力を発しているというその状態に圧倒される想いがし、昔は花もそうでないものも、洒落たものも冴えたものもそうでないものも、私にとっては何もかもが同じジャンクだったのかもしれない、でもその日はもうそうではなかった。そのみずみずしさが、本当に部屋の中に灯りをともすようで。もうずっと前からそうだったようだったので。一緒にいてよい、寄り添っていてかまわないと初めて許されたようで。
その後あの一輪が忘れられず、出歩くたびにいろいろな花屋を見るのだけれども、あの一輪よりいいなと思う薔薇に出会うことがない。それが花を買わない理由になってもいるのだけれども。
とにかく私はその日必死になってバラを瓶に生けて、神経質なぐらい置く場所を考えてあちこちを行き来し。もらったくせに彼に花を自慢しつづけた。この子は貴婦人みたいだとか言っていた。花びらのその質感、葉脈の感じ。翌日も翌々日も薔薇は元気に咲いていて、もう可愛くてうれしくて、飽きもせず眺め、写真を撮ったり手に持ったりなでたり、部屋を移動するときにも連れていったりしていたのだけれども、やっぱり何度も忘れては思い出し、でもやはり忘れていたのだった。いつか死んでしまう。
それでもまさかと思うほどその花が枯れてゆくということはその時期の私を打ちのめした。ちょっとでも長く生きてほしくていろいろなことを試みたけれど、それでも時は容赦なく花を通り過ぎていき、もう飾っておくにはしおれてしまっているという状態になって、交換したほうがいいと誰が見ても思うような非常識な状態になっても、「まだ一緒にいてもいい」「まだ生きている」とかなんとか私は言って花を飾っていた。茶色くなってぼろぼろになってしまってもあきらめられず花を捨てられないでいた。
五月も終わり、もう夏が来るというころになってようやく、彼が窓辺に飾ったままの朽ちた花を見、捨てなくていいからどこかに埋めてあげなと言った。裏に大きな山になってる神社があるから、神社には申し訳ないけれど、その草木が生えているところに置いてこさせてもらおう、明日休日だから散歩して行こう。緑が眩しい休日の朝に、そのあたりが芝生を刈った濃い草木の匂いでけむくなっている中を、瓶を持って神社に行って、その山の肌の目立たないところに花を置いて、瓶の中の水をかけて帰った。やけに感傷的になった。
奈良を歩いていると、本当に美しい苔とかを見る。観葉植物とかも、たまにはいいなあと思ったりもする。すべてに思うわけではない。時々はっとする出会いがあるというだけで。自分にはその存在の何も分かることのできない、圧倒的に他者な生き物が自分のそばにあるっていうのは素敵なことだと思うし、思っている。でもまた迎えることができるのかどうか。いつか「花が好き」とか言えるようになるのだろうかさっぱり分からない。でもあまり好きじゃないっていうのもすんなり言えそうにはない。何日か前、あまりに忙しく容赦なく生きているある女性が、生きる隙間に花に水をやりながら「花はいいものよ。もうずっと花だけ触っていたいなと思うよ」というのにただ頷いた。小さいころ、あんなにいくらでもむしることが出来た道端の花々を、今はどうして出来ないようになったのかしらね。ごめんねテーブルヤシ。
でもあの日の私も、まあ、がんばっていたとは思うのだけれども。
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