今日、映画館でアリエッティを観ていたら、か細くあまりに切ない女性の涙声が後ろのほうから響いてきた。まさか隣の部屋でやっている映画の音が、こちらに漏れ聞こえているのだろうか、とありもしないことを考えた。その声は途切れることなくずっと終わりまで続いて、正直「感動で涙が出る」というような内容でもなかったため、困惑せずにはいられなかった。
あとでそれが、とても幼い女の子の泣き声であったことを知った。
彼女は映画の中で、意地の悪い(ように悪意を持って描いてあるように見える)家政婦が、そのいやらしさを、小人や少年に発揮する後半があまりにも怖くて、いやで、ただただ耐えられず、泣いていたのだという。
女の子の母親は、「こんなところでそんなに泣くなんて」と怒り気味。
女の子は、だからこそ余計不似合いに我慢した涙声になってしまっていたらしかった。
その涙とその深刻な恐怖への
戸惑いと驚きと、ひかえめな共感と、そして、
無責任な申し訳なさ。
個人的な感想を言うなら『アリエッティ』はとてもいい作品だった……と思う。
小人たちの暮らしの細々とした無数の萌え(調度品、衣服の美しさ、宮崎駿的な身体の動き等)
父親の職人らしいその洗練された動きの描写。虫や風景をはじめとした自然の描かれ方、色彩感覚。
そうしたものの素晴らしさはもう、宮崎駿でなくてもそれを映画の中で柔軟に使用し、生かすことが可能なのだ、ということにほんとうに驚かされた。
ずっとそうしたものは宮崎駿が指揮するときだけあらわれるものだと勝手に思っていたから。
そういう意味では、宮崎駿が完成させた「細部」をノウハウとして、システムとしてジブリはもう持っていて、自在に使うことが出来るということを示した『アリエッティ』は、いずれ、わたしがこれまで宮崎駿に限られると思い込んでいた表現方法のすべてを使って、かつ、「宮崎駿でない人」が監督であるということを意味深く感じさせてくれる、素晴らしい作品をジブリは完成させるだろう、と予感させてくれる作品だった。
『アリエッティ』は、既にジブリで見たことのあるようなもので出来ているから真新しい驚きこそなかったものの、前半に関してはとても素敵だと感じたし観てよかった映画だな、と今も思っている。
その繊細さに涙しそうにもなった。
ただ、だからこそ「どうしてこうなってしまったのだろう」と思うところも多かった。
ストーリーや展開が完成されているからこそ、とくに家政婦の描写は耐えられない気持ちになるところでもあり、なぜそれを選択したのだろう、と考えずにはいられなかった。
わたしはもう「大人」だから、『アリエッティ』を「子どもには理解できない映画なのではないか」「ジブリ作品の中では大人向けの作品だ」というように言うことができる。
あの家政婦の、「あのように物語の悪意の役割を引き受けさせられている」描写を自分なりに消化することもできる。
少年と家政婦は、実は根本では違わなくて、単に世代や立場によって、ひとつの物事に対する態度が違ってしまっているだけだ、とか。家政婦は悪役なのではなく、もっと彼女に別の問題が委ねられているのではないかとか。
いろいろ考えることで、映画を観ている自分の息苦しさから遠ざかったり、あるいはその息苦しさに自分ひとりで責任をとろうとすることが出来る。
でも、あの女の子の、あの本当にただただ映画に傷つけられてしまった悲しみを見たときに。
その涙に「この映画は子どもには分からない」と言うことがどうしても不適切だと思ったし
「映画を観て感じ方は人それぞれだから、その子がそうなってしまったのは映画のせいではない」とも思えなくて。
勿論映画が人を傷つけてはいけない、なんて思わない。
でも、あの子のあの涙を、監督やジブリは映画体験の中に含みたかったんだろうか。
いやなら観なければいい、と誰もが言ってしまえる映画だけれど、彼女には逃げ出す術はなかったのだろうと思う。
わたしはもう、ひとつの作品を見たり読んだりしたときに、ただただ「丸ごと好きになる」ことのできる歳ではもうないから逆に、作品に対して突っ込んだ疑問を感じにくくなってきてもいる。
傷ついても、「それはそういうものだ」と思うことが出来るようになってきている。
だからこそあの子の涙に、ひどく驚いてうろたえてしまった。
あらためて宮崎駿の凄さというものを感じた。
無意味を追って、意味をガンガン開いていった『ポニョ』は凄かったなあと思う。
ポニョは歌が流行りすぎたことを忘れてしまえば、何度でも新鮮な気持ちで向き合える作品だと思うんだ。それが昔のように、人の気持ちをいっぺんに束ねあげてしまうような強さがないとしても。
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