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脱ぎ捨てられる昨日

door to door

   

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猫がくるまで

12月に猫を迎える予定でいます。

決まると、すごくあっけないことのように思えるけど。
まだ来るような気が本当にはしていない不思議な時間。
もう来ないと思ってた。うちには猫はやってこないと。
10歳の私に言ったらとても驚くと思う。あなたのところに猫が来るよ。


「結婚するので(アレルギーなので)(引っ越すので)猫を手放すことになりました。募集条件・生涯面倒をみてくれる人」という募集を見るたびに「……」となったこと。
殺処分される猫を減らしましょう!だから捨て猫を飼いましょう!というのを見すぎて、捨て猫を飼うことが本当に殺処分を減らすことに繋がるのかな拾う人がいるから捨てられるという面はないのかなと思い始めてきてモヤったりしたこと。
募集条件が新婚と一人暮らしは不可だったり、子供を生む予定があるかどうか・年収を聞かれる・部屋に直接届ける・一ヶ月に一度は写真付きメールで近況報告とか、見ているうちに何かがわからなくなっていったこと。
常連のカフェで、捨てられていた子猫に里親募集をかけていたけれど一瞬ですべて決まってしまっていたこと。全然血縁関係にないたくさんの猫たちがその子猫たちを全部、面倒をみていたこと。そのときの子猫たちのあまりにも穏やかなまあるい寝顔。
譲渡会に行ったこと。
実家で里親募集の猫を迎え入れたこと。その猫を迎えに行ったとき、乳飲み子だったときから面倒をみてくれたというおばあさんが別れを惜しんでずっと泣いていたということ。
その猫をワクチンに連れていったとき、少ししか面識のないわたしを注射中ずっと頼ってきたこと。
里親募集シェルターで話を聞いたこと。
そこにいた両眼球のない猫がとてもそうとは思えなかったこと。とても優しくしてくれたこと。
そのシェルターは最近譲渡数3000頭を越えたって。本当にすごい。
ペットショップで8年ケージから出ていない猫を看板猫だと言われたときのこと。
脚が萎えていてその猫がもうあまり歩けなかったこと。爪が伸びすぎていて肉球が痛んでいたこと。
キャットショーのカルチャーショック。スタンダードの猫の貫禄と毛艶と栄養状態にびっくりしたこと。

常連のカフェにいた19歳の猫が台風の日に死んでしまったと聞いた。死ぬなんて全然これっぽっちも思っていなかった。かっこいいペルシャミックスだった。レオ立派だっただろうなありがとう。みんなでレオ様と影で呼んでいました。一度テーブルにジャンプしたときは歓声がわいたね。
もういない。

二年前に出会って、腕の中でずっとごろごろ言ってくれていたやわらかな一匹の猫が、うちにくる猫のお父さんになった。

セルカークレックスという種類の猫がうちに来る。
天然パーマの猫で、まだ種類としての歴史は浅い。
大きくなるまでは親兄弟とずっと一緒にいて、いろんなことを学んでこられるようにお願いした。
わたしは猫のことをあまりにも知らなすぎるから、本人が少しでも猫であることを知ってきてくれれば嬉しい。
生きやすい猫になりますように。
そして、幸せかどうか永遠に聞くことは出来ないけど、どうか幸せに生きてくれますように。その手助けができるだけ出来ますように。

すべての猫が望まれて生まれ、望んでいる人のところにやってくれば、捨て猫はいないと思う。
そんなに上手くはいかないだろうけど。

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パンの音

ホームベーカリーが真夜中に小さい洗濯機みたいな音をたてて働いてるのがかわいい

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前後

「荒木飛呂彦の超偏愛!映画の掟」を読んでたら映画「バタフライ・エフェクト」に触れていて、わたしは観たことがないのだけれど、過去のある時点にもどって何度もそのときを経験するような話であるらしい(違ったらすみません)。

 それでふと思い出したんですが、10年以上前、堂本剛主演で、主人公が事故がきっかけで何度も過去に戻るようになり、そのため最初のループのうちは、ミスの多かった人生をやり直せるからラッキーだと思い、結果を知ってる馬券を買ったりしてお金持ちになったりするんだけども、毎回99年だかゼロ年を決して越えられない、結局また過去に戻ってしまう…しかも戻るたびにループする前の最初の人生で発生していた不幸が悪化する、というようなドラマをやっていたことを思い出しました。何回やり直しても99年だかゼロ年を越えられないので、それじゃあ金持ちになろうがなんだろうが同じじゃないか、というように、主人公や擦れていきます。

 確か河合我聞が友人役。最初の人生でも堂本剛の親友で、何度めかのループまでは仲良かったのに、あるループで堂本剛の忠告を決定的にきかず、のっぴきならない事態をまねき、堂本剛の目の前で自殺する、というような流れがあり、河合我聞が色白の顔で目鼻をひくひくさせて泣きながら拳銃自殺するシーンの妙な情けなさがけっこう切なく、妙に覚えています。ドラマ自体は細部がなんとなく雑というか、そっけない作りで、あまり愛着を感じられない、登場人物に共感しにくいつくりだった記憶があります。そのぶん不気味な感じの作品でもありました。

 わたしは過去にも、はじめて「バタフライ・エフェクト」のあらすじに触れたとき、「ああ、あのドラマはこの映画の影響で制作されたのかな」と思った記憶があります。というのも、何か下敷きになる既存のストーリーがないとできるような感じの話ではなかったからです。でも今調べたら、ドラマのほうが古く99年作らしい。後々考えれば90年代のおわりからゼロ年代はループものや平行世界ものが大量に作られていたので、別に珍しいものでもないのかもしれませんが、当時のドラマって時々今以上に、ひとりで夜書いたり呼んだりする手紙っぽいというか、ちょっと閉鎖的な感じのする内容のドラマをやっていたのだなと思います。

 この文章を書き始めたときはあのドラマのタイトルなんだっけ、誰か教えてくれないだろうかと思っていたのですが、今はWikipediaがなんでも教えてくれることを思い出しました。「君といた未来のために〜I'll be back〜」というタイトルの作品であるようです。もう15年くらい前の作品だったのですね。そして河合我聞は別に出ていなかったみたいです。わたしが見たと思っていたものは一体なんだったんでしょうか。

 未来こそが僕の帰る場所だ!という前向きなタイトルであるように見えるんですが、99年ごろのあの世紀末感を感じさせるなあとも思います。99年ごろの作品にとって未来ってあの世みたいな扱いでした。
 
 そして同じように堂本剛主演の「僕らの世紀未満都市」などがそうなように、この作品もDVD化していません。この当時の、メジャーだったのにマイナーな感じのする、ちょっとガラクタっぽいところが魅力の作品の多くが、退屈な理由で(少なくとも噂される理由は)ソフト化していないのは残念なことです。たとえば木村拓哉主演の「ギフト」とか……(正直新しく木村拓哉のドラマを観るよりは、「眠れる森」などこのころの作品を観たほうがずっと確実に彼の俳優としてのきらめきを感じられると思うので、復刻を期待するところです)。そして私はそれらのほとんどの最終回を見ておらず、「君といた未来のために」のオチももちろん知らないのでした。


 

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クリスマスの終わりとそれからのメモ1

梅田のクリスマスイルミネーションを見ながら、最近の照明、あれはLEDだろうか?
ずいぶんすっきりとした光で、スタイリッシュでパキッとして見えるなと思う。

いっぽうであたたかみやにぎわいを感じることのない光よなあ、と思う。
その光に、人の干渉を感じさせない。だれかがセッティングし、スイッチを入れたんだろうか?
そういうことがあいまいになる。
街灯がたくさん光っていることとの差を感じにくいというか。

かつては光がたくさんあって人が集まるということ、それは圧倒的な富であって、華やかなにぎわいを感じさせたのだろうけれども、この時代に大都会で、夜たくさん明かりがあって人が歩いているだけで「明るさ」や「にぎわい」を感じるのは難しい。

きっと江戸時代なんかの夜の繁華街というもの、ろうそくだとか油やたいまつだのを皆で燃やしたりだのしていたころは、毎晩祭りのように感じられただろう。そこを行く人たちと、そこで商う人たちの交わり。その明暗を肌身で感じることができただろうと思う。

そのにぎわいのファンタジックさを想像する。毎夜祭りのようであったろうな。
光や人が集まるということ、ただそれだけで特別に物語的であったころ。

最近のクリスマスツリーは、暖炉とサンタクロースや冬の夜の寒さのイメージからはずいぶん遠いところにきている気がする。


この間観た『タクシードライバー』は、照明がネオンだったころの繁華街を走っていた。
あの、光があることによってより薄暗く感じるような、どこか陰鬱な華やかさというのも、わたしは見ることのないまま過ぎていきそうな気がする。

……かつてのようにわざわざろうそくを灯さずにすむようになった生活というのは、「便利になった」といわれる。よく上の世代に言われることに、「今の世代は何でもあっていい」「今の子供は贅沢だ」ということがあって、スイッチひとつで明かりがあることはさもそうでないことよりも確かに楽で豊かであるのだけど、それは一方で、この時代の相対性の中では、ろうそくのようなものは贅沢品になったということでもある。
もちろん、必然として手間を要求されなくなったこと、楽になったということにかわりはないのだけれども。よい明かりを灯そうと思えば、コストと時間がかかるのだ。


部屋を暖色照明にしたいとか間接照明にしたいと思っても、蛍光灯やLEDライトのほうがはるかに電気代が安いとか省エネであることなどから結果的にそっちを選んでしまうということ、そしてそのこうこうと明るい照明の下で夜を過ごすということ。
確かに誰もが便利で長持ちするものが手軽に手に入って良い時代なのだけれども、一方ではそれはそうでないものを選べば得ることのできる雰囲気とか、風情とかいうものは得ることができない。そうした中でろうそくや行灯のようなもので灯を得ようとしたらそれは贅沢、趣味の領域になる。
現代においては、そうした明かりは質素や清貧ではなく、高級なことだ。

……サーシャ・テューダーの暮らしを見て、「質素な、ものをほしがらない自然な生活」と思うのは間違いで、彼女はベンツやブランドドレスをほしがらなかっただけで、この時代の不自然を、贅沢を選んだのに変わりはない。労力をかけて庭を作り上げ、味わいながら、手間隙を惜しまず自分だけの生活を作り、古い手作りの自分が気に入ったものだけを買い揃える。周囲のすみずみにいたるまで自分の好みにし、日常世界から自分にとって不要なノイズを排除する。
そうしたことは、身の回りのものを大量生産品で間に合わせざるを得ず、日々家の中でまで広告に囲まれ(このブログも気づかないうちに広告が強制的についてしまった)、労働で時間を手放さざるを得ない現代の生活にとっては、贅沢なことだ。

ターシャは決して貧しさを選んでいるのではない。


***


近所のジャズバーの前を通りかかると、窓から真っ暗な店内、古いツリーが飾ってあり、豆電球がピカピカと明滅を繰り返していた。あかあかとしたその明かりに思わず足を止め、ようやくクリスマスがきたという感じがする。ああしたツリーはわたしが子供のころにはよく売られていたなあ。「豆電球」には、ノスタルジーをのぞいても、光のあたたかさをだいぶ感じられる。


***

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雑記



大学時代のおわり、自分の服にどうしようもなく非自分性を感じ、それらを脱ぎ着するのをやめて、ボーイフレンドの大きめのパーカーをはおってぼろいジーパンにサンダルで授業に出ていたころというのがあって、あのころの自分はもう、自分の幼年期の、思春期の、誰も知らない借金を返すような気分で日々を生きている自分というものにうんざりして疲れ果てていたのであろうなと思う。
でも今思い返すとそんな「適当な」格好さえ何かしらの抵抗、何かしらの主張であったように思われるし、ボーイフレンドの衣服を着ていたということも、何らかに庇護されたいと思っていたのだろうと思う。ボーイフレンドそのものというよりは、人の衣服を着ているというそのことに。
過去は、自分のことであるのにいらぬ深読みをどこまでもできるてしまう。
スペースシャトルみたいに過去を自分からいったん切り離してしまえたら便利なのだけれども。ここからここまでが私、そこから先は切り捨てでよろしくとしてしまいたいなと、こんな歳になっても思ったりする。人生のすべてのそのときに自己同一性を感じるのは不可能だと思うけれど。昔の人は気分でよく改名をしていたという。母親が死んで辛いので改名しましたとかあるらしい。

大学時代に着ていた服は、もう一着も残っていない。すべてとうの昔に私ではなくなってしまった。

服オタとかコスメオタ、とか言ったりもするけれど、すべての人が何らかのことを感じている。いちいち緊張したりしなかったりを繰り返し、脱いだり着たりしている衣服や、化粧というものの、あの感じ。
きれいに選択して洗濯された衣服は美しい。
まるで手に入れる前から私のものであったように思える衣服、靴、鞄。
着ているだけで自分が守られていると思えて、それは自分の本当に一部になる。
それを着て気持ちのいい日に気持ちのいいところへ恋人と友人と出かけたいと思うよ。

でもその一方で、毎日鏡の前で自分をチェックするのを繰り返していると、新しく会う、あるいは旧知の他人、圧倒的他人、に対して、ありもしない尻尾を必死になって隠しているような気分が続くこともある。そうなると、この武装は一体何であるのかという気分になって、自分は武装なんてしなくてもいいのだということを居もしない誰かに示したくなってきてしまったりする。そういう自意識の酩酊状態から抜け出そうとして抜け出せることは絶対にない。

百貨店に行くと、すっと遠くまで見張らせるフロアに、あれこれのブランドの化粧品コーナーがずらり、美容部員もずらり。わたしはあの風景が好きで、同時に同じぐらい苦手。
美容部員は髪をまとめあげていることが多いけれどもあれは顔が見えやすいようにするためなのだろうけれど、ずらりと並ぶと異様。こちら春の新色なのですけれど、今私がつけてるんですけどこういう風になりますっていうときに頬は見えてないといけないからそういうものなのだろうけれど、そのブランドの化粧品でベースから最後まで行われた、お手本としての化粧を顔に乗せて、同じ服と髪型で並ぶ。
顔はぱーっと明るくて眉毛の、あのきれいなブーメラン。
フロアで見るとここはどこ私は誰な気分になり、すーと意識が現場から遠ざかるときがある。スーツならまだしも白衣を着ていたりもする。白衣って何かとか思い始めると、いろんなことが奇妙。試してみますかといわれて街のど真ん中でクレンジングされ、知らない女性にメイクをしてもらう自分というのはふとわれに返ると危険。そのきれいに整えられ、整った笑顔を向けてくれているその顔のむこうに、ずっとたくさんの彼女がいる。美容部員は名前を持っていて、生活があって、過去があって、悲しみを持っている。今日の夕食があるし、彼女たちだってメイクを落とすのだ。そういうもの全部が今とりあえずシャットアウトされて、美容部員の顔、というのがここにあって、それはシャネルだったりイブサンローランだったりロレアルだったり資生堂だったりRMKだったりする。そして正解があったり的外れがあったりする。

美を与え、美のモデルである仕事であるはずなのに、彼女たちは同じ衣装を着て同じ髪型をしている。
私はこのわけのわからなさ、というものを、好きになったり抵抗を感じたりを繰り返す。

しばらく化粧をしないで過ごしていると、ああ、化粧をしなくては、と思う。
化粧をあれこれできるのなんて今のうちだけよ、とか、そうとも限らないのに頭のどこかでうるさくて、でもしばらくしていない自分の顔というものがあって、戸惑ったようにしていない居心地の悪さと、でも「ラク」という言葉では表現しきれないその、自分自身のみずみずしさみたいなものを感じるときもある。

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