大学時代のおわり、自分の服にどうしようもなく非自分性を感じ、それらを脱ぎ着するのをやめて、ボーイフレンドの大きめのパーカーをはおってぼろいジーパンにサンダルで授業に出ていたころというのがあって、あのころの自分はもう、自分の幼年期の、思春期の、誰も知らない借金を返すような気分で日々を生きている自分というものにうんざりして疲れ果てていたのであろうなと思う。
でも今思い返すとそんな「適当な」格好さえ何かしらの抵抗、何かしらの主張であったように思われるし、ボーイフレンドの衣服を着ていたということも、何らかに庇護されたいと思っていたのだろうと思う。ボーイフレンドそのものというよりは、人の衣服を着ているというそのことに。
過去は、自分のことであるのにいらぬ深読みをどこまでもできるてしまう。
スペースシャトルみたいに過去を自分からいったん切り離してしまえたら便利なのだけれども。ここからここまでが私、そこから先は切り捨てでよろしくとしてしまいたいなと、こんな歳になっても思ったりする。人生のすべてのそのときに自己同一性を感じるのは不可能だと思うけれど。昔の人は気分でよく改名をしていたという。母親が死んで辛いので改名しましたとかあるらしい。
大学時代に着ていた服は、もう一着も残っていない。すべてとうの昔に私ではなくなってしまった。
服オタとかコスメオタ、とか言ったりもするけれど、すべての人が何らかのことを感じている。いちいち緊張したりしなかったりを繰り返し、脱いだり着たりしている衣服や、化粧というものの、あの感じ。
きれいに選択して洗濯された衣服は美しい。
まるで手に入れる前から私のものであったように思える衣服、靴、鞄。
着ているだけで自分が守られていると思えて、それは自分の本当に一部になる。
それを着て気持ちのいい日に気持ちのいいところへ恋人と友人と出かけたいと思うよ。
でもその一方で、毎日鏡の前で自分をチェックするのを繰り返していると、新しく会う、あるいは旧知の他人、圧倒的他人、に対して、ありもしない尻尾を必死になって隠しているような気分が続くこともある。そうなると、この武装は一体何であるのかという気分になって、自分は武装なんてしなくてもいいのだということを居もしない誰かに示したくなってきてしまったりする。そういう自意識の酩酊状態から抜け出そうとして抜け出せることは絶対にない。
百貨店に行くと、すっと遠くまで見張らせるフロアに、あれこれのブランドの化粧品コーナーがずらり、美容部員もずらり。わたしはあの風景が好きで、同時に同じぐらい苦手。
美容部員は髪をまとめあげていることが多いけれどもあれは顔が見えやすいようにするためなのだろうけれど、ずらりと並ぶと異様。こちら春の新色なのですけれど、今私がつけてるんですけどこういう風になりますっていうときに頬は見えてないといけないからそういうものなのだろうけれど、そのブランドの化粧品でベースから最後まで行われた、お手本としての化粧を顔に乗せて、同じ服と髪型で並ぶ。
顔はぱーっと明るくて眉毛の、あのきれいなブーメラン。
フロアで見るとここはどこ私は誰な気分になり、すーと意識が現場から遠ざかるときがある。スーツならまだしも白衣を着ていたりもする。白衣って何かとか思い始めると、いろんなことが奇妙。試してみますかといわれて街のど真ん中でクレンジングされ、知らない女性にメイクをしてもらう自分というのはふとわれに返ると危険。そのきれいに整えられ、整った笑顔を向けてくれているその顔のむこうに、ずっとたくさんの彼女がいる。美容部員は名前を持っていて、生活があって、過去があって、悲しみを持っている。今日の夕食があるし、彼女たちだってメイクを落とすのだ。そういうもの全部が今とりあえずシャットアウトされて、美容部員の顔、というのがここにあって、それはシャネルだったりイブサンローランだったりロレアルだったり資生堂だったりRMKだったりする。そして正解があったり的外れがあったりする。
美を与え、美のモデルである仕事であるはずなのに、彼女たちは同じ衣装を着て同じ髪型をしている。
私はこのわけのわからなさ、というものを、好きになったり抵抗を感じたりを繰り返す。
しばらく化粧をしないで過ごしていると、ああ、化粧をしなくては、と思う。
化粧をあれこれできるのなんて今のうちだけよ、とか、そうとも限らないのに頭のどこかでうるさくて、でもしばらくしていない自分の顔というものがあって、戸惑ったようにしていない居心地の悪さと、でも「ラク」という言葉では表現しきれないその、自分自身のみずみずしさみたいなものを感じるときもある。
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