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脱ぎ捨てられる昨日

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カテゴリー「未選択」の記事一覧

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若返るしかないわけで


23才の夏休み


22才の夏休み


映像も音もどんどん上手くなっていく。
前のほうが好きという人もいるだろう。

もはや誰も安全なところにいられない中で、でもの子の表現が変わる様を見せつけられることは、どこか遠くでロケットが打ち上げられているのを感じる感じ。「ああ、『(キラカードの)きみ』に、『大嫌い』という言葉を、こんな風に選ぶようになったんだ、と思い、はっとする。
上手く言えないけど。

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夢を夢らしく語ることは困難であることを承知の上で最近見た夢語り。
※自分としてはグロさは全くなかったのだけれど、そう感じられる人もいるかもしれない。
血液等、グロテスクな演出はなかったことを添えておく。


・両腕が二の腕のあたりで切り落とされ、地面に落としてしまう。白い道をひとりで歩いていたようだ。
これじゃ拾うこともできない、と悲しくなり、不安と疎外感のようなものをわずかに感じながら立ち尽くしていると、(ひとりでいたはずだが)近くにいた親密な人物がわたしに駆け寄り、泣きながら両腕を拾い上げ、あっという間に縫い付けてくれる。
ありがとう、と言って手をグーパーすると、何の支障もなく動くので、もう一度ありがとう、と言うと、その人はわたしの腕の縫い目をさすりながら泣いている。
もう元通りだから、泣かないで、とわたしは言う。手をいろいろ動かしてみてよく動くことを示しながら、「いや、ほんとによく動くな」と腕に意識が集中してしまう。
強く縫い目をさすられながら、慰撫されている、と思う。


両腕のはずだが、ほとんど右手のイメージでできている夢だった。


・目の異物感がすごく、目薬をさしても水の中でパチパチしてもとれないので、仕方なく目玉を洗うことにする。
目玉はなぜか白くなく、透明でクリスタルのような印象だが、わずかにまるみのある手ごたえ。
丁寧に流水で洗いながら、自分が目玉を洗っているという違和感に気づき、不安になる。洗っている目玉はこぶしより少し小さいほどのサイズがある。洗いながらも目の異物感は継続している。こびりついた裏側の汚れを右手の人さし指の爪先でそっと落として、ゆっくりと目にはめると、沈みこむような手ごたえがあり、視界が開ける。乾燥した目に目薬がしみこむような潤いを、かなり「実感」として目に覚える。
無秩序なビジョンから水中メガネをかけてプールにもぐったときのようなクリアなビジョンにゆっくりと変わり、「これはコンタクトと水中メガネのイメージが目玉に重なったのだな、わかりやすい比喩だわ」と思いながら目覚めた。

この夢も右目のイメージだった。サイズがやけに大きかったのは、最近ゆで卵をむいたりじゃがいもを洗ったりした手ごたえがイメージとしてかぶさったのだろうか?


・キッチンで立ったままプリンを食べている。
使っているフォークを見るとそれはデザートフォークである。プリンなのにフォークを使っていることに疑問はない。
デザートフォークなんて持っていなかったなと思いながら、じっとデザートフォークを見ていると、デ ザートフォークはやがて色を失い、デザートフォーク性を見失い、質感とかどうでもよくなり、線がばらけはじめ、線の問題になってしまい、最終的に三本のはるさめとして実体化?してしまう。
はるさめって、と思ってじっとはるさめを見ているとはるさめ性も失われていき、線のイメージが揺らぎはじめ、すぐにすべてのイメージを維持できなくなって夢がほどけてしまう。
場面がとび、山奥。老人男性が木を彫ってスプーンを作っている。生木の気配。
が、老人は下手なのかなんなのか、最後の仕上げでスプーンの丸いところと持つところのさかいめのポイントが折れてしまう。折れちゃったよ、と思うとまたすぐ仕上げの場面になり、確認するようにそれも折れてしまう。
折れちゃうのか、と思って見ていると、老人は全く気にした様子がなく、それを面白そうに笑うのに気まずく笑ってつきあう。楽しい気持ちになる。
よくできた一本をくれたので右手にそれだけを握って山道を帰る。
山道は霧の出た朝の気配だが寒くはなく、歩くのも辛くはなかった。


・恋人の実家が海辺で営業している、サーファー向けの駐車場兼カフェキッチンの2階のテラスから海を見ていると、唐突にテラスの手すりの下のほうから青い竜がのぼってくる。
下を見るとテラスの下は無限に続くかと思う深い穴で、ずももももと青い竜の身体がベルトコンベアのように上に運ばれていく動き。目の前に生き物の肌触りで、思わず右手をちょっと出して竜の腹を撫でる。見上げると晴れ渡った空、もう竜の顏は見えない。
日差しを避けてパラソルの下でビールを開けてひとりで昇っていく青い竜を眺める。下を歩くサーファーたちが青い竜に陽気に拍手したり口笛を吹いたりしている。

目覚めて、高校ぐらいのころも昇る青い竜の夢を見たことを思い出す。そのときよりディティールがしっかりあったのは、多分今ヘビを飼っているからだ。そして多分竜が昇って行くイメージは、『千と千尋』由来と思われる。

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あのころの…



メロディとテンション、歌い方、どれもなんだか懐かしく、でも過去の古さまではいかなくて、落ち着く。
どうしてか遠ざかって、今となってはそのときの自分の参加していた暗闇からさえ疎外感がある。あのころの感じにわずかでも訴えてきたものを、「一時の幼さだった」と切り捨ててしまうことなく、どうしたらちゃんと冷徹に守ってとっておけるのか
「時代を越える作品」ばかりがもてはやされて、時代の狭間に散らばるたくさんのもの、たくさんのひとときが見捨てられていく。自分もたくさんの、「そのときの切実さ」を、大きくまとめてあとから都合よく、大人になったとなぜか形容される価値観で過去を暴力的にまとめて塗り替えている。過去は現在からしか見出せず、追えば追うほどそのときとはズレていくのに。
ただ打ちのめされ、ただ手を突っ張るしかなかった「そのとき」のそのときを、勝手に俯瞰したつもりになって。

エディプス。

岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を、60歳になって読むことを想像すると少し怖い。
昔からそうだったように思うけれど、自分より年下の人が歌う歌に率直な興味が持てなくなっている。余裕がないのかな…?

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区別


「ユニクロもいいよね」と晴れた声と、「もうユニクロでいいじゃん」と言う打ち止めの声。

後者は、主張であるように見えて、実はそれ以外の選択肢を与えていない言葉だな、と思う。そのあきらめを共有、肯定してほしいのだし、 もっと言えば、他の人がそこで何か別の区別、別の選択を行おうと模索していることを否定したいのではないかと。
大きな意味では、「あなたはわたしと同じでいいでしょ」という、相手を飲み込んでしまう言葉なように思う。ユニクロを肯定してもいないし愛してもいない。
もちろんユニクロはたとえのひとつとして。
それが周囲にとって幸せな決着につながることもなくはないけど、ネガティブな力が発揮されるときも多い。

子どもの選択の迷いに対して、大人が
もうどっちでもいいじゃない、なんでも同じだろう、というとき。
その瞬間、子どもが選ぶのを迷っていたものの魅力は、失われないまでも、奪われる感覚があるのかもしれないと思う。迷うということごと。

「もうなんでもいいじゃん」という台詞のなんでもなさが。
人と人が区別しているものはそれぞれ違うなかで、自分の区別だけを「こだわり」という言葉で正当化し、他人の区別を「関係ないものを関係づけている」「区別の必要ないもの」というように切り捨てるのはフェアじゃない。

いっぽうで、さまざまなコミュニケーションや生活様式下で区別されているものを無知・無視していることで生まれるぼんやりしていることになってしまうも の、あるいはぼやけている自分の部分。
個人。

相手の区別と自分の区別のなさを一緒にしてしまうことで、相手を自分のだらしなさに引っ張り込みすぎてしまう人。自分の区別で相手の区別していないところを試し切り捨ててしまう 人。あえてあれとこれを一緒にして考えることで互いの融和点をみつけるのが上手い人。横断する人。区別のなさを区別にする人。自分が区別できるものだけを「世界」にする人、保留するのが上手い人。区別を避ける人。

既にその人の中にある家族的な価値観、世代、平面の倫理にこちらを当てはめて会話をする人と話すと、自分が個人名を持っている感じがしない。
まるで自分が話す前から、相手は自分のことを知っているかのよう。
そしてそのようにしてどんな意味に自分がふりわけられるかよく知っている。


自分はどうしたらそうでなくなれるだろう、と思う。
少ない意味に人を回収していく強い声。
他人を簡単で、分かりやすいものにしてしまう言葉。

洗練って何だろう。
選択ってどこまでが自主的なのか。

普段のふるまいの中で、会話の中で、メールで、ネットで、自分が自分にとって適切な話し方がいつもできるということはまったくない。
人のことは分かるのに、自分のことは分からない。
自分の中の蓄積が、人の美しさを勝手に発見し、肯定するのに、自分のことになると醜ささえ見えにくい。自分の未知の醜さに脅え、周囲の人が曖昧に共有している分かりやすさに、確からしさに、受動的に流されそうになる。流されながら、抗いたいと思っている自分を何様なのかと思う。

物差しを磨くことって出来るんだろうか。
自分の物差しの良し悪しを区別してくれるものはないけど、自分の中の自分が、感覚が鈍磨している、見失っている、と指摘してくることはよくある。
いっぽうで、厳しさになっては意味がない。こだわりを持ちたいわけじゃない。偏屈にもなりたくない。居直りたくはない。
きっと磨くべきものも持つべきものも、「物差し」ではないんだろう。

黒髪のショートカットを気負わずにできるようにようやくなった。ずっと長い髪に頼ってきたけれど、自分にはショートカットのほうがずっと、見た目にも生活にもふるまいにも合っていると今は思う。 通っているある美容室の美容師が、無口に真剣にカットしているその様子。 もとは神戸で長いこと切っていたらしい(そういえば以前、都内でとても気持ちよく髪をセットしてくれた女性も、神戸でずっとやっていたと言っていた)。
「あの人はもう中年だし、ちょっと無口でもさっとしていて怖くないかしら?」とある女性は言っていたけれど、わたしは彼の、「しごと」に集中しすぎているように見えるその感じ、その信頼感にたまらなく安心するし、癒される。気後れするほどの丁寧さに、大切にしてもらっている、と感じる。自分そのものが、ではなく、自分が大切にして持っていたいものを、自分がするよりずっと大切に手入れしてもらっている感じがする。
無知な自分が想像し、説明するところよりはるかに創造的で美しいラインに切ってくれること。
ボブやショートは、見ていると彼の得意なところでもあるらしい。なめらかなラインに、自分の髪なのに見入ってしまう。ギャル雑誌からコンサバ系、モード、料理、週刊誌にゴシップ誌まで、ちょっと揃いすぎている雑誌に驚きながら、ふとレジのむこうを見ると、『クローズ』の坊屋春道の笑顔の三頭身のフィギュアが、箱のまま飾ってあった。
わたしがカットしてもらっているところに、きれいなセーラー服姿の女の子がやってくる。
丁寧に手入れされた髪を持った彼女は、とても落ち着いて穏やかに見える。まるで何かに守られているように。

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美味しい麦茶

https://www.moku-moku.com/ec/shop/product.php?prodcd=2504051
モクモクファームの麦茶

正直ファーム自体は、「……」と思ってしまう感じだったものの、麦茶はびっくりなおいしさ。
なんかコクがすごいのだ。
知ってる麦茶の、もう一歩奥行きのある味がする。濃いのではなく、味が広い。
ひとくちでとても満足する感じ。
麦茶ってあまり好きじゃなかったんだけど、すごく穀物な味がするものなんだなあ。
そしてこの安さと量。炊いても炊いても減らないよ。
ビールは商品化する前の、まだ濁っているものを飲ませてもらった。
牧場に視察に来ているサラリーマン集団が全員スーツに革靴なのを見て、「体験型の牧場なのに、全員スーツで視察に来るっていう時点で企業として先を感じない、ああいうの本当にイヤだよね」という友人のつぶやきと同じぐらいスッキリとしみいる、フルーティでおいしいビールだった。

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