「ユニクロもいいよね」と晴れた声と、「もうユニクロでいいじゃん」と言う打ち止めの声。
後者は、主張であるように見えて、実はそれ以外の選択肢を与えていない言葉だな、と思う。そのあきらめを共有、肯定してほしいのだし、 もっと言えば、他の人がそこで何か別の区別、別の選択を行おうと模索していることを否定したいのではないかと。
大きな意味では、「あなたはわたしと同じでいいでしょ」という、相手を飲み込んでしまう言葉なように思う。ユニクロを肯定してもいないし愛してもいない。
もちろんユニクロはたとえのひとつとして。
それが周囲にとって幸せな決着につながることもなくはないけど、ネガティブな力が発揮されるときも多い。
子どもの選択の迷いに対して、大人が
もうどっちでもいいじゃない、なんでも同じだろう、というとき。
その瞬間、子どもが選ぶのを迷っていたものの魅力は、失われないまでも、奪われる感覚があるのかもしれないと思う。迷うということごと。
「もうなんでもいいじゃん」という台詞のなんでもなさが。
人と人が区別しているものはそれぞれ違うなかで、自分の区別だけを「こだわり」という言葉で正当化し、他人の区別を「関係ないものを関係づけている」「区別の必要ないもの」というように切り捨てるのはフェアじゃない。
いっぽうで、さまざまなコミュニケーションや生活様式下で区別されているものを無知・無視していることで生まれるぼんやりしていることになってしまうも の、あるいはぼやけている自分の部分。
個人。
相手の区別と自分の区別のなさを一緒にしてしまうことで、相手を自分のだらしなさに引っ張り込みすぎてしまう人。自分の区別で相手の区別していないところを試し切り捨ててしまう 人。あえてあれとこれを一緒にして考えることで互いの融和点をみつけるのが上手い人。横断する人。区別のなさを区別にする人。自分が区別できるものだけを「世界」にする人、保留するのが上手い人。区別を避ける人。
既にその人の中にある家族的な価値観、世代、平面の倫理にこちらを当てはめて会話をする人と話すと、自分が個人名を持っている感じがしない。
まるで自分が話す前から、相手は自分のことを知っているかのよう。
そしてそのようにしてどんな意味に自分がふりわけられるかよく知っている。
自分はどうしたらそうでなくなれるだろう、と思う。
少ない意味に人を回収していく強い声。
他人を簡単で、分かりやすいものにしてしまう言葉。
洗練って何だろう。
選択ってどこまでが自主的なのか。
普段のふるまいの中で、会話の中で、メールで、ネットで、自分が自分にとって適切な話し方がいつもできるということはまったくない。
人のことは分かるのに、自分のことは分からない。
自分の中の蓄積が、人の美しさを勝手に発見し、肯定するのに、自分のことになると醜ささえ見えにくい。自分の未知の醜さに脅え、周囲の人が曖昧に共有している分かりやすさに、確からしさに、受動的に流されそうになる。流されながら、抗いたいと思っている自分を何様なのかと思う。
物差しを磨くことって出来るんだろうか。
自分の物差しの良し悪しを区別してくれるものはないけど、自分の中の自分が、感覚が鈍磨している、見失っている、と指摘してくることはよくある。
いっぽうで、厳しさになっては意味がない。こだわりを持ちたいわけじゃない。偏屈にもなりたくない。居直りたくはない。
きっと磨くべきものも持つべきものも、「物差し」ではないんだろう。
黒髪のショートカットを気負わずにできるようにようやくなった。ずっと長い髪に頼ってきたけれど、自分にはショートカットのほうがずっと、見た目にも生活にもふるまいにも合っていると今は思う。 通っているある美容室の美容師が、無口に真剣にカットしているその様子。 もとは神戸で長いこと切っていたらしい(そういえば以前、都内でとても気持ちよく髪をセットしてくれた女性も、神戸でずっとやっていたと言っていた)。
「あの人はもう中年だし、ちょっと無口でもさっとしていて怖くないかしら?」とある女性は言っていたけれど、わたしは彼の、「しごと」に集中しすぎているように見えるその感じ、その信頼感にたまらなく安心するし、癒される。気後れするほどの丁寧さに、大切にしてもらっている、と感じる。自分そのものが、ではなく、自分が大切にして持っていたいものを、自分がするよりずっと大切に手入れしてもらっている感じがする。
無知な自分が想像し、説明するところよりはるかに創造的で美しいラインに切ってくれること。
ボブやショートは、見ていると彼の得意なところでもあるらしい。なめらかなラインに、自分の髪なのに見入ってしまう。ギャル雑誌からコンサバ系、モード、料理、週刊誌にゴシップ誌まで、ちょっと揃いすぎている雑誌に驚きながら、ふとレジのむこうを見ると、『クローズ』の坊屋春道の笑顔の三頭身のフィギュアが、箱のまま飾ってあった。
わたしがカットしてもらっているところに、きれいなセーラー服姿の女の子がやってくる。
丁寧に手入れされた髪を持った彼女は、とても落ち着いて穏やかに見える。まるで何かに守られているように。
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