とにかく、彼女の顔はボコボコだった。
額にはいくつかの擦過傷。片目にした眼帯からは紫色や赤色や緑色の混ざり合った真新しいアザが大きくはみ出し、頬骨のあたりは新品の野球グローブのように分厚くつるつるに腫れ上がり、もう片側の顔とは別人のよう。
怪我が目に鮮烈なので、色白の、さっぱりとしたきれいな顔立ちをいっそ引き立てていた。かすかに桃色の頬、目元が涙とは無関係に赤く、ウサギのようだった。
ミニスカートを履いたきれいな足を大きく組んで、ピアニッシモを吸いながら、「ねえ目立つ?」と彼女は向かい側の席に一人座っている私に聞いた。
うん、だいぶね、と私は答える。
私たちは初対面だったし、その後会うこともなかった。彼女は彼女と一緒にいた男性がトイレに立ったタイミングで、私に話しかけてきた。私は彼女をジロジロ見たりしたつもりはなかったけど、彼女にはそう感じたのかもしれない。
そのころ私は、ふいに普通に話しかけられるということがよくあった。
新宿のカフェ。
夜になるにはまだ少し時間がある。真冬で寒い日だった。
「昨日の夜中、酔っ払って、マンションの階段で転んだの。歩いてるとみんなが顔見てくんだよね。自分じゃ見慣れちゃったから、べつにたいしたことないと思ってたんだけどさ。やっぱ目立つのか。困ったなあ、仕事あるのに」
「女の子が顔を怪我してるとさ、階段から落ちたって言っても、心配しちゃうし、されちゃうよ」
「やっぱ、オトコに殴られたっぽく見える?」
「どうかな」
「けっこう、見た目だけだよ。あたしも鏡見てびっくりしちゃった。医者も、骨折とかヒビはないっていうし。見た目がひどいだけだよ、ホント。痛くないし」
「痛くないの」
「うん、痛くない」
彼女はざっくりと着ていたダウンジャケットの左袖を脱いで、大きなアザのある腕を見せて、コレは超痛い、と苦笑する。わたしは顔をしかめて、痛そうだね、とうなずく。
「気をつけて。一回やっちゃうと、またやっちゃうかもしれないから」
「酔っ払って階段から落ちても、死なないでしょ」
「死ぬよ。有名な人何人も、それで死んでるよ」
「マジ? やばい、怖いな」
彼女は明るく、白い顔で何度も笑った。溌剌として見えた。私たちはほんの少し、いろんな話をした。
大丈夫?と聞くと、彼女は大丈夫だと答えた。
今なら、大丈夫か、なんて聞かないのに。
やがて男が戻ってきて、何ケガの話? 今日お前その話ばっかじゃん。お前やっぱやべーよ、一緒にいると俺が殴ったみたいに思われんじゃん、とか言いながら、上から目線な感じの、なのにどこか卑屈に聞こえる空回りした笑いがあって、私はこの「お前」の言い方はとてもいやだなあと思う。
思われるわけないじゃん、べつに関係ないんだし、と彼女が煙草に口をつける。
ああこの男の人は、彼女の恋人ではないのだなと私は思う。
そして今になって私はふと、急に不安になっている。
彼女は元気にしているだろうか。
私は別れ際になんと言ったのだったか。
だれも聞いていないのに、前のめりに自分の傷をネタにして、周囲の緊張をほぐしてしまおうとする彼女はサッパリとしていて、痛々しさや陰鬱さとは無縁で、あっさりと懸念を散らしてしまうエネルギーがあって。
私はただの通行人、まだ今よりずっと若く、いろんなことを飲み込みやすく、飲み込みながら垂れ流していた。もしかしたら、たとえ彼女が誰かに殴られたのだとしたって、世の中そういうことがあることもあるんだろう、とぼんやりと思ってしまっていたのかもしれなかった。
彼女を、なんでもありな世の中の、初めて見るのに納得ずくの風景のひとつとしてしまうことで、実際に起きているだろうことの、その物語そのものには、まるで無頓着だった。
何かが起きる前から何もかもを納得ずくであるかのような顔をすることで、人よりいろんなことに耐久性があるふりをしていたのかもしれない。
彼女が今きれいな顔をしているといいのだけど。階段から落ちたのだとしたって、階段から落ちないですむ家に暮らしていてくれたら。ただの通行人の、思いつきの感傷の素材にされたりなんかして、彼女には悪いなと思う。だってもう彼女には、私の出会ったたくさんの女の子たちが重なりすぎていて、とうに違うものになり果てている。
でも、もしあの時彼女が、私を使って自分の嘘の耐久性を確認していたのだとしたら、私はあのとき失敗したと思う。
あのころ彼女はほんの二十歳ぐらいだった。私だってそうだった。
なのにどうしてあんなに、二十歳であることがたいしたことではないようなふりをしていたんだろう。いろんなことに出くわすたびに、ものめずらしいのに、そうでないふりをしていた。
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