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脱ぎ捨てられる昨日

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瞼のむこうのその人に

夢はたしかに見るのだけれども、いつだって夢は思い起こすことでしか自分のものにならない。

夢のまっ最中に落ちて、夢とともに動いていく「自分」というものの、あの臨場感をあんなに知っているのに、夢みるそのときの自分は夢を知ることはまるでなく、いつも起きてから、急速に失われていく夢の夢らしさばかり、その上澄みを慌てて言葉で寄せ集めるしかない。
そして言葉にしてしまったらそれはもう夢ではなくなってしまい、自分の知っていることだけで出来た傲慢な物語になってしまう。
夢は語ったそばから自分のものになってしまい、それはつまり夢が他人のものになってしまうということのように思う。スナフキンが、「なぜ人は皆自分に行ってきた旅のことを聞きたがるのか、言葉にして話したら旅はだいなしになってしまう」というようなことを言っていたということを聞いたけれども、その感覚に近いかもしれない。言葉にしてしまったら、旅は旅ではなくなってしまう。でも、夢は言葉にしなければ忘れてしまう。
言葉は未知を未知にしておくことができない。言葉は対象を自分が知っていることにしてしまう気がする。少なくとも語っている自分にとってはそういう無力感がつきまとう。

人の夢の話を聞くことは、多くの場合とても苦痛であるらしい。
それは究極の「自分語り」を聞かされるということだからだろうか。夢を語るほうは自分がとても面白いことについて語っていると信じてやまず、夢のありのままをこぼさずに伝えなければ鳴らないと使命感のようなものさえ抱いているかのように語ることがあるのに、聞くほうはその語る人の情熱を感じれば感じるほど途方もなく退屈に感じてしまうという、この落差はなんだろう。その、交換するもののなさ具合。

覚えている夢よりもただ通り過ぎて消え去った夢のほうがずっと夢であり、覚えている夢はとうに自分がいいように編集した映画のようになってしまっている。それが本当に見た夢かどうかさえ怪しい。こういう夢をみたことにしようといつか自分がしたかもしれないし、もしかしたらもっと別の記憶をつぎはぎして夢ということにして引き出しにしまっておいているだけかもしれない。自分の人生の過去の記憶と同じように。

というわけでわたしはとてもよく夢をみる。

夢をみながら、少しなら夢を都合よく編集することも出来ることもある。
いやな場面にきたら巻き戻したり、とばしたりする。
巻き戻るときの感覚は面白い。
夢の中でごうごうとまわる大きな洗濯機に突っまれたみたいな感じ(言うそばからちっともそんなではないのに、そんな感じであるような気がしてくる)
現実の自分の身体に鳥肌がたつ感覚さえある。実際に失敗して目が覚めることもある。目覚めると耳のあたりがざわざわとしている。
空を自在に飛ぶ夢を見ることもある。たいていの場合気持ちのいいものではないけれども。
訓練すればもっと夢の達人になる人もいるということだけれど、それはともかくとして、これだけ夢をみるのに、わたしは自分の夢というものを全く信頼していなかった。

「信頼」という言葉は誤解を生むかもしれない。
たしかに、少なくとも私は、夢が何か自分の未来や現在について、ほかの何よりも重要な解答を示すとか、そういう風に思ったことはない。
とはいえ、夢を軽視しているというのでもない。夢読みについて否定的だというつもりもない。つきあい方やスタイルの問題であり、夢読みという他人、社会から向けられる物差し・言葉に対する自分の物差しの問題だと思う。フロイトが夢読みをする以前にも、世界のさまざまなところに歴史的・伝統的な夢読みのルールは存在したのだし、現在もこの都市の人間の間にも夢読みのルールは存在するだろう。歯が抜ける夢をみたと言ったら、幾通りものそれらしい解答が得られるように。その中で一番、自分の言葉にしっくりとくるものを人は選ぶ。
ようはそれは多分、今のところ自分にとってはテーブルマナーのようなものだ。

信頼していない、というのはそういうことよりもむしろ、前記のように、夢を思い起こすうちにいろんな象徴が装飾されて、それらしいものに姿を変えてしまうからだ。
実際には夢に見もしなかったことが当然のように繋ぎとして使われてしまったりする。
たった30分しか寝ていなかったのに、どう考えても二時間以上の夢を見ていたはずだ(その膨大な情報量が30分のうちのレム睡眠中におさまるわけがないという感覚)ということも少なくない。
だから、夢には「そのとき」なんて本当はないのではないかと思っていた。

「ああ今日、○○さんに会った夢をみたな」と寝起きの自分が思ったとして、本当に私が○○さんに会った夢をみたとは限らないのではないの、という疑いがあったのだ。
こういうことは言葉にしているうちに、どんどんわけのわからないことになっていく。


さて、久しぶりに会った友人の「寝言」を偶然聞いた。そのことについて書くということについては、本人に申し訳なく思うけれども、その時わたしははっと衝撃を受けた。

普段話しているときと同じ声の高さと、調子と、歯切れの良さで。
「それでご飯買いなよ」
「うんいいからさ、気にしないで」

それを聞いて思ったのは、ああ、この人は、「今」、だれかに実際に会っているのだなあ、という新鮮な驚きだった。夢の中の「そのとき」は、あとで物語化したときにはじめて固定されるものではなく、きちんと経験している、一出来事なんだ。

目の前でだれかがだれかに電話をかけているときのように。
電話のむこうに誰かがいて、制御できない言葉の交換をしているように。
その人がだれかと「話をしている」という、その疑いのなさが。
全部過去ではなく、現在なのだ。
閉じた瞼をへだてて、誰かもう一人いるように思えてならなかった。
今声を出したら、わたしの声もちゃんとその人へ届きそうな気がする。
その手ごたえのようなもの。

夢のうちで、自分の発する言葉は、物語の自分の役割にあてふられた台詞を後で思い返すのではなく、本当に誰にも制御できずに突き進んでいってしまうそのときそのときの「会話」であるとしたら。
アクションではなくリアクションであり、刺激に対する反応であるのだとしたら……。
誰かに話しかけられて、それに答えて言葉を発しているその様は、それはもう本当に、誰かに実際に会っていることと、夢で誰かに会うことと、何の違いがあるんだろう?
その閉じられた瞼のむこうに、誰かがいるのではないとどうして言えるだろう?

夢でAさんに会うのと現実にAさんに会うのと、どのぐらい違うだろう。
なんせ相手が本当にいるかいないか違うのだから、ぜんぜん違うのじゃないかと言ったって。
去年会ったあの日のあのことを、Aさんは覚えておらず、わたししか覚えていないということだってあるのだし。その逆だってあるのだから。
Aさんの知らないところで、夢でわたしが勝手にAさんに会うということだって、Aさんと私が会うことには、変わりあるけれどもそれにしたって、変わりないのではないの……。

チカチカ眩暈を感じる思いで気がつくと朝になり、「昨日こうこう言っているのを聞いたけど誰に会ってたの?」と聞くと、やはり相手は覚えていないどころか、「自分は夢をみない」と言うのであって、はてその記憶と夢のすき間で、ご飯を買いに行っただろうだれかは一体だれであって、今何をしているのだろうなとわたしは軽く混乱した。


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