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脱ぎ捨てられる昨日

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撃たれる

夢は記憶の整理。

この間、昼間に、画面のむこうがわからこちらに向かって銃を撃つというアニメのワンシーンを見る機会があった。それが、撃つときに銃口に火花の描写があるんだけど、黄白色の火花なんだけれども、銃口で水風船がが破裂しているようにしか見えず、もうちょっとちゃんと描いてくれまいか、と笑ってしまったのだけども、声優の演技と効果音なんかはすごくよくて、少年が「撃て!」という心の声に、信念に従って敵に向かって銃を撃つというのが、なんでか説得力があって、なんだか気になって何度も何度もその描写を見た。

日本は銃社会じゃないから、「銃を撃つ」=「男性性」「暴力性のなんらかのかたち」というのが、子供時代はよくわからなかった、というか、借り物めいた、演技めいたものにしか思えなかったのだけど、ふと大人になって、今、自分よりずっと歳若いことになっている少年が、男としての成長のひとつの現われとして、その少年時代への決別として、何かを引き受ける覚悟で、相手を殺すために、銃を撃つということが。そして撃ち終わったとき、充足するかわりに、それまでの自分自身を失うということが。
その描写がやけにひっかかって、しんどい思いをした。
銃が、少年のそれまでのすべての怒りを解放するそのときであること…。
そしてその描写は、例えば背を向けた少年がむこうに向けて銃を撃つとかではなく、画面のこちらがわに向けられている。

子供時代は、映画や漫画の登場人物が銃を撃つということのかっこよさは、前提として鵜呑みにしていただけだと思う。ルパンがなぜ銃を撃ってそれがかっこいいのか、私にはずっとずっとよく分からなかった。次元が銃を撃つのがなぜかっこいいのか、全然分からなかった。でもかっこいいということになっているから、かっこいいことになっていた。そしてかっこいいと思っていた。なぜ、異性に銃で胸を撃ちぬかれるのが恋愛につながるのかも、そういうものだと鵜呑みにし、いずれ慣れていっただけで、実際の腑に落ちる感覚で分かることはなかったように思う。ガンアクションの多い映画は、なんだかよく分からなくて、きちんと面白いと思ったことがない。俺の銃を撃つ、みたいなものが、全然分からないのだ…。
戦争ものなどの銃は、もうただただ怖くて忌まわしいもので、スタイルとか読み取る気持ちにもなれなくて、遠巻きにしてきた。怖いから、知らなかった。何も。表面だけのことも分からなかった。
子供時代なら、だからこそ、物語の主人公が銃を撃つとき、私も撃つことができたのだ。なぜならそれは、撃つべきときであり、撃っていいときであり、撃つかどうかの選択は、主人公がしてくれていたから。だから素直に、ただ重なればよかった。
でも今になって、少年は撃つべきときがきて、撃つことにした、でも同時に撃たされている、ということが、その撃たされている姿が、撃たされているのに撃っているのは自分だと分かっている姿が、おそろしい。おそろしくて、情けなくて、そしてかっこいい。

火花の絵が洗練されていたらこんな風におさまりの悪い気持ちにならなかっただろう。そして、銃は嫌なものだなあ、と思った。
そして初めて、銃を撃つシーンのかっこよさが分かっている自分を意識する。そのファンタジーの意味が自分なりに分かっていることに驚く。


その夜、何度も何度も、銃で撃たれる夢を見た。

右のほうからそれは現われる。視界に入り、ちゃんと見るときにはもう、むこうが撃とうとしているのが分かる。心構えができる前に、あっ、と思ったときにはもう、引き金が引かれる。ああ、と私は諦める。諦めるのは一瞬のことなのに、ものすごくエネルギーを使う。なんでもなく簡単には諦められない。楽しい気持ちも幸せな気持ちも、一瞬ですべて最低の状態に引き下げられる落差に、胸がものすごく苦しくなって、身体が芯から疲れてしまう。普通の自分から、疲れきって投げやりさえも通り越してしまっている気持ちに半秒もかからず移動させられることに、くたくたになる。くたくたになっているところを、撃たれる。それはもう気軽に。
ぱん、と誰かに頬を張られるような衝撃があって、世界全体が、軽く破裂してしまう。こんなにあっさりしたものなんだ、という感じで。
そこから後はない。
そしてずっとそれが繰り返される。ふと気づくと、あ、と思ったときには引き金を引こうとしているのが見える。私は全身全霊で諦める。ぱん、と破裂する。私を撃つのは少年だったり、大人の男だったりまちまちだが、実像が曖昧だ。女ではない。もしかしたらずっと同じ人なのかもしれない。私は撃たれる。気がつくとまた、あ、と思う。私は諦める…。
悲しみや憎しみや怒りや屈辱や未練のようなものはない。ただ諦めるのに疲弊する。そしてずっとおろおろと焦っていた。

ここしばらくでも最低の夢見、寝起きも最低だった。次に撃たれることに身構えて緊張していた。どうせならもっと上手く諦められるようになるまで、撃たれることが面白くなってくるまで続けばいいのに、そういうわけにはいかず、一番分かりやすく嫌なループの仕方をした。

もちろん夢の銃であり、ファンタジーの銃であり、実際に銃に撃たれるそのときそのものとは関係がない。
私は本当の銃を見たこともないから。
でも何度も何度も撃たれながら、自分は撃つがわではないんだ、撃たれるがわなんだ、ということが、すごく自然なことだと思った。自分があれを撃って、何かを失うかわりに大人になるようなことは絶対にないんだ、ということは、あらかじめ決まっていることだと思った。もし夢の中で銃を持っていたとしたら、身を守るために撃っただろう。でも多分当たらない。そんな気がする。そして銃はなかった。
私に銃はない。

子供時代の私なら、撃つがわに自然に入り込めたはずなのに、なぜだろう。
撃たされていたんだろうか?よくわからない。
だからといって、大人になった今でも、自分が丸裸の人間なのだ、という気分でもないのだ。
何かしら私は武器を持っているのだろうか。そうだとしたら、それは何であって、どういうもので、どういうことなのだろう?

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