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ラーメンからカツ丼のくだり、白岩さんの鈍感さが許せないのは、自分がまだその最中にいるからだろうか。 ポケットの話も、せつない。
貧しさから始まった価値観を持って、豊かに満足しているふりが出来るようになろうとしても、過剰な実験と退屈な結果に打ちのめされ、振り回されるばかり。
さも当然のように、美しいものを選択しているという自負心さえ感じさせず、美しいものを選び取ってしまう誰かが仮にいるとして、そこに向かっていく自分の悪夢みたいなもの、絶望的な嫉妬のようなもの、途方もない羨望とどうつきあうか。
過去なんてなかったかのように、ずっとそういう人間であったかのように、堂々とどの場所にでも立っていられる人間になれたらいいのに。確信を持って。
自分以外にも、もっと強く、内側から支えてくれると感じられる強くみずみずしい声があったらいいのに。名前もない神様でいいから。
家族が、恋人同士が、あらゆるコミュニティが、 「他と比べて自分たちは幸せである」「だから自分たちは幸福な集団である」と言うとき。 その想定される狭すぎる他者、世界と、浅ましい優越感と、その言葉にごまかされ、押し込められわからなくなってしまう無数の不幸に限りなく近いもの。
こわばった場所にいることは時に楽で、悲観的な状態は魅力的ですらある。
その魅力を無視して切り捨てるのは抵抗にはならないから、せめて時々座り込んでしまったとして、そこで自分で必死になって強引にお茶を煎れて飲むことが出来るぐらいの習慣を身に付けられたら。
ネパール人やインド人の動画を見たけど、目分量かつ大ざっぱにしか見えなくて分からなかった。うちで一番参考にした動画。
豆乳はいいなあ。この3年ぐらい、牛乳はたくさんは飲めなくなってしまった。チーズやヨーグルトは昔よりずっと美味しく食べられるけれど。
高校一年生ぐらいのとき、お弁当に豆乳を持ってきていた女の子がいて、わたしはあまり豆乳に馴染みがなくて、小さいパックの豆乳を飲んでいる様子を「へえー」と思った。丁寧に作られたお弁当と、彼女と、小さいパック豆乳。 十年近く遅れて、わたしも豆乳を一人で買ってきて、自然に飲めるようになっていて、彼女の顔と名前を思い出そうにも思い出せないぐらいの時間が経ったことに気づく。
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