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脱ぎ捨てられる昨日

door to door

   

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あたたかいものをわざわざ飲む勇気

http://www.1101.com/shiraiwa/2009-08-04.html http://www.1101.com/arairyouji/2010-06-21.html

ラーメンからカツ丼のくだり、白岩さんの鈍感さが許せないのは、自分がまだその最中にいるからだろうか。 ポケットの話も、せつない。

貧しさから始まった価値観を持って、豊かに満足しているふりが出来るようになろうとしても、過剰な実験と退屈な結果に打ちのめされ、振り回されるばかり。
さも当然のように、美しいものを選択しているという自負心さえ感じさせず、美しいものを選び取ってしまう誰かが仮にいるとして、そこに向かっていく自分の悪夢みたいなもの、絶望的な嫉妬のようなもの、途方もない羨望とどうつきあうか。
過去なんてなかったかのように、ずっとそういう人間であったかのように、堂々とどの場所にでも立っていられる人間になれたらいいのに。確信を持って。

自分以外にも、もっと強く、内側から支えてくれると感じられる強くみずみずしい声があったらいいのに。名前もない神様でいいから。

家族が、恋人同士が、あらゆるコミュニティが、 「他と比べて自分たちは幸せである」「だから自分たちは幸福な集団である」と言うとき。 その想定される狭すぎる他者、世界と、浅ましい優越感と、その言葉にごまかされ、押し込められわからなくなってしまう無数の不幸に限りなく近いもの。

こわばった場所にいることは時に楽で、悲観的な状態は魅力的ですらある。
その魅力を無視して切り捨てるのは抵抗にはならないから、せめて時々座り込んでしまったとして、そこで自分で必死になって強引にお茶を煎れて飲むことが出来るぐらいの習慣を身に付けられたら。


ネパール人やインド人の動画を見たけど、目分量かつ大ざっぱにしか見えなくて分からなかった。うちで一番参考にした動画。
豆乳はいいなあ。この3年ぐらい、牛乳はたくさんは飲めなくなってしまった。チーズやヨーグルトは昔よりずっと美味しく食べられるけれど。
高校一年生ぐらいのとき、お弁当に豆乳を持ってきていた女の子がいて、わたしはあまり豆乳に馴染みがなくて、小さいパックの豆乳を飲んでいる様子を「へえー」と思った。丁寧に作られたお弁当と、彼女と、小さいパック豆乳。 十年近く遅れて、わたしも豆乳を一人で買ってきて、自然に飲めるようになっていて、彼女の顔と名前を思い出そうにも思い出せないぐらいの時間が経ったことに気づく。

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セシル・コルベル

ジブリは主題歌なんでああ決まるんだろう。






石川智晶について、知り合いが、「声がちょっとおばさんぽいのがいい」と言っててそうだなーと思う。 少女性・母性のようなものを同時に広く含みながら、ぐーっと開いていく感じがする。
その上で、自己陶酔や神秘性に居直ってもいない。 あくまで「こちら側」に、生身の女性が立っている感じがする。
その着実さ。責任感みたいなもの。

セシル・コルベルはメディアがもてはやす容姿じゃないだろうなあ、と思う。10代だったら「美しくない」と言ってしまったかもしれない。 そういう、あらかじめ決定づくになってしまっているにぶい線をキッパリと越えていく重々しさみたいなものが彼女の容姿や歌にはあってとても綺麗だ。

アリエッティの主題歌は日本語でうたわれているけど、その日本語にこなれない感じが、当然の発音の日本語の歌を聞くより、言葉が幅を持って聞こえてくる。


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眼鏡とレモングラス

最近かけているラコステの眼鏡が、クラシックな印象というか
なんかハリウッドの80年代の映画の脇キャラっぽい存在感があって(ある気がして)
でも日常や自分の顔に浮きすぎず気に入っている。
何かのキャラクタになったみたいに自分のことを感じられるのが嬉しい。 勘違い効果すごい。

この眼鏡には結構楽にしてもらった。家の中にいても自分の顔にがっかりしなくなった。子どものころは、似合わない眼鏡をかけている顔が自分そのものになってしまって自尊心が傷ついたし、眼鏡を買いにいくたび、高価なものを親に買わせることが自分の罪であるように思えてならなかった。

大人になって自分でコンタクトを買えるようになってとても安心したけど、家では眼鏡を使い続けていた。眼鏡のことは軽んじて考えるようになった。あまり重視しないことで、向き合わないですましていた。だから多分やっぱり自分と眼鏡の関係は嫌いだったと思う。

今でも勿論安いとは思っていないけれども、「高い無駄」とは全く思わなくなった。愛している眼鏡が顔の一部になっていると、安心するしグッとくる。そんな日は来ないと思っていた過去の自分に教えてやりたい。大丈夫、いつか辛くなくなる時がくる。
きっと自分は納得しないだろうけれど。


今の眼鏡の前にかけていた眼鏡は、スペアになったとたん、これもこれでいいところがあるじゃないか、ちゃんと前の自分もモノを選んでいたじゃないか、と思えるようになった。驚きだった。眼鏡のスペアの眼鏡なんて、そういえば持ったことがなかった。自分の唯一の顔ではなく、もうひとつの可能性の顔だと思えるようになった途端、客観視できるようになった。

唯一性にとらわれていると、不自由なのだな。
ひとつきりのものと向き合いすぎていると、意味が限定されすぎて、逃れられなくなってしまう。


さっき友達から貰ったハーブティーを、「これ何の葉だったかな」と思いながら煎れたらレモングラスだった。
ポットをあけたら想像以上に香しくて、丁度数十分ほど、行き詰まるような気分を持て余していたのもあって、ふいをうたれて驚き、呆然としてしまった。
自分だけで時空がパンパンになってしまっていたところに、ふいに友達の姿を見つけたような感じ。

贈り物って素敵だ。世界に未知を、他人を感じられる。

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その涙の責任をいったい誰がとるだろう

今日、映画館でアリエッティを観ていたら、か細くあまりに切ない女性の涙声が後ろのほうから響いてきた。まさか隣の部屋でやっている映画の音が、こちらに漏れ聞こえているのだろうか、とありもしないことを考えた。その声は途切れることなくずっと終わりまで続いて、正直「感動で涙が出る」というような内容でもなかったため、困惑せずにはいられなかった。
あとでそれが、とても幼い女の子の泣き声であったことを知った。
彼女は映画の中で、意地の悪い(ように悪意を持って描いてあるように見える)家政婦が、そのいやらしさを、小人や少年に発揮する後半があまりにも怖くて、いやで、ただただ耐えられず、泣いていたのだという。

女の子の母親は、「こんなところでそんなに泣くなんて」と怒り気味。
女の子は、だからこそ余計不似合いに我慢した涙声になってしまっていたらしかった。

その涙とその深刻な恐怖への
戸惑いと驚きと、ひかえめな共感と、そして、
無責任な申し訳なさ。

個人的な感想を言うなら『アリエッティ』はとてもいい作品だった……と思う。
小人たちの暮らしの細々とした無数の萌え(調度品、衣服の美しさ、宮崎駿的な身体の動き等)
父親の職人らしいその洗練された動きの描写。虫や風景をはじめとした自然の描かれ方、色彩感覚。
そうしたものの素晴らしさはもう、宮崎駿でなくてもそれを映画の中で柔軟に使用し、生かすことが可能なのだ、ということにほんとうに驚かされた。
ずっとそうしたものは宮崎駿が指揮するときだけあらわれるものだと勝手に思っていたから。

そういう意味では、宮崎駿が完成させた「細部」をノウハウとして、システムとしてジブリはもう持っていて、自在に使うことが出来るということを示した『アリエッティ』は、いずれ、わたしがこれまで宮崎駿に限られると思い込んでいた表現方法のすべてを使って、かつ、「宮崎駿でない人」が監督であるということを意味深く感じさせてくれる、素晴らしい作品をジブリは完成させるだろう、と予感させてくれる作品だった。

『アリエッティ』は、既にジブリで見たことのあるようなもので出来ているから真新しい驚きこそなかったものの、前半に関してはとても素敵だと感じたし観てよかった映画だな、と今も思っている。
その繊細さに涙しそうにもなった。
ただ、だからこそ「どうしてこうなってしまったのだろう」と思うところも多かった。
ストーリーや展開が完成されているからこそ、とくに家政婦の描写は耐えられない気持ちになるところでもあり、なぜそれを選択したのだろう、と考えずにはいられなかった。

わたしはもう「大人」だから、『アリエッティ』を「子どもには理解できない映画なのではないか」「ジブリ作品の中では大人向けの作品だ」というように言うことができる。
あの家政婦の、「あのように物語の悪意の役割を引き受けさせられている」描写を自分なりに消化することもできる。
少年と家政婦は、実は根本では違わなくて、単に世代や立場によって、ひとつの物事に対する態度が違ってしまっているだけだ、とか。家政婦は悪役なのではなく、もっと彼女に別の問題が委ねられているのではないかとか。

いろいろ考えることで、映画を観ている自分の息苦しさから遠ざかったり、あるいはその息苦しさに自分ひとりで責任をとろうとすることが出来る。
でも、あの女の子の、あの本当にただただ映画に傷つけられてしまった悲しみを見たときに。
その涙に「この映画は子どもには分からない」と言うことがどうしても不適切だと思ったし
「映画を観て感じ方は人それぞれだから、その子がそうなってしまったのは映画のせいではない」とも思えなくて。
勿論映画が人を傷つけてはいけない、なんて思わない。
でも、あの子のあの涙を、監督やジブリは映画体験の中に含みたかったんだろうか。

いやなら観なければいい、と誰もが言ってしまえる映画だけれど、彼女には逃げ出す術はなかったのだろうと思う。

わたしはもう、ひとつの作品を見たり読んだりしたときに、ただただ「丸ごと好きになる」ことのできる歳ではもうないから逆に、作品に対して突っ込んだ疑問を感じにくくなってきてもいる。
傷ついても、「それはそういうものだ」と思うことが出来るようになってきている。
だからこそあの子の涙に、ひどく驚いてうろたえてしまった。

あらためて宮崎駿の凄さというものを感じた。
無意味を追って、意味をガンガン開いていった『ポニョ』は凄かったなあと思う。
ポニョは歌が流行りすぎたことを忘れてしまえば、何度でも新鮮な気持ちで向き合える作品だと思うんだ。それが昔のように、人の気持ちをいっぺんに束ねあげてしまうような強さがないとしても。

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夏服の話

22歳ごろの夏 ある昼過ぎに
東京のどこかの駅で

券売機に千円を入れてから、
目的地までいくらのボタンを押せばいいか分からないことに気づいて
モタモタとだらしなく上の表を見て考えていると
斜め後ろ 近いところから
「どこ行きたいの」と声をかけられて
反射的に答えながら振り返ると

きれいな夏服を来た高校生の男の子が
わたしの肩のあたりからさっと券売機に長い手を伸ばして
ばしっ、とボタンのひとつを押して
そのまま自分は定期で改札を通って行ってしまった
あっという間に

駅の構内はガランとしていて
いくつも並ぶ券売機には他に誰もいなくて
券売機のピーピー音と、お釣りのジャラジャラ音がやけに響いて
出てくる切符を慌てて引っ張りながら
その夏服の一瞬の背中を見送るわたし


白い夏服が暗い静かな構内をくっきりと切り分けて
奇麗な肩だなあと思った



友達の日記で制服萌えの話してて思い出した
どんどん制服の子は遠くなっていく
22のころはまだもっと、うんと自分に近い存在に思えたけど


その残像と温度

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