「キッチンに水気を残したくない」とは思っていた
というわけで
洗い物をしたらシンクの内側も拭き上げてしまおう
人によっては「そんなのふつうのことでしょう」ということ
でも、だれかの「ふつう」に一歩踏み込むのは時々、少し怖くなる
まるで誰かにそう言われたことがあるみたいに
「きっとできない」という
内なる声、それは本当に自分の声なのか、
過去の誰かの声なのか
人生にこびりついて
体調が悪いと自分をはがいじめにしてはなさない
***
シンクを拭き上げる隙にお湯を沸かして、ひいておいた豆でコーヒーを煎れる
ハンドクリームを塗りながら豆が蒸れるのを待つ
ハンドクリームは香りがしない、するのは豆の匂いばかりだ
カフェインを少しは減らしたほうがいいなとか思いながら
キッチンにいるのも寒くなくなってきたことを実感する
三角コーナーを二年ほど使っているのだけど、
最近は使っていない人も多いのだそうだ
「自分の使い方がヘタなのかなあ」と思っていたけど、どうも
そういうことでもない気がしてきている
これを限りなく清潔に使う努力をするのではなく
これそのものがそもそも不潔になりやすいと思ってもいいのでは……
三角コーナーに入れなければ、そもそも生ゴミは水気を含まないのだ
どうせ毎回捨てるのだから、これを使わなくても捨てたらいいのじゃないのかな
しかしかわりに
「新聞紙」や「広告」(どちらも水分が出なくていいなあ)や「なまごみ処理機」を使う人が多いらしく
新聞をとっていない身とすると考えどころ
「こういうときは新聞紙を使うと便利です」といわれるシーンは多いけど
まさか「日常のちょっとした便利のために」新聞をとるというのもなんだかちがう
***
コーヒーを煎れ始めたときはとにかく豆かすの始末が「??」だったのだけど
最近ようやく落ち着いた
コーヒーを煎れるときはドリッパーにお湯がたっぷり残った状態でカップやサーバーからあげてしまうので
捨てるためにはドリッパーを湯切り?しないといけないのだ
このとき「後でかわいてから片づけよう」と思って放置し、うっかり事故が起きたりすると、シンクが海辺の古いシャワー施設みたいになってしまう
かといって三角コーナーにざっと入れていいかというと、
それが一番やってはダメで豆が編み目に詰まってしまう
何ヶ月かして、ようやくコーヒーゴミ用に入れ物を買ってきた
クリーム緑色のちいさなジャストサイズのダルトン缶
こういうことってどうしてすぐに思いつかないんだろう
早くそうすればよかったとしか思えないのだけど
でも他に方法があるとはなかなか思えないもので
生活は思い込み、大げさに言えば呪いを解かなければならない気がする
「このやり方はダメ」と思ったら次を考えられるようになりたい
「自分がもっと上手く使えばいいんじゃないか」
「自分がだらしないんじゃないか」
「自分が気をつければよくなるんじゃないか」
「自分が無能なのではないか」と
非生産的だけど最も人生に負担で不幸で悲しい反省を繰り返し
消極的で不毛なチャレンジを繰り返すのではなく
自分が苦労せず上手く使える楽しいシステムにさっと乗り換えてしまえるようになりたい
自分の人生は自分で選べますよって、散々言われていることではあるけれど
家や、学校、その他あらゆる場所で……あらゆる場所の不思議と前提になっている規律の中で
そこにあるもの……もの、概念、思想も含めてすべてを、主導権を握っている人の気にさわらないように使いこなせるようになろうといつまでもするのではなく
自分の暮らしの中では、
さっと自分のシステムは自分で別に選んでいいはずなのだけど
いつまでも古いシステムの中で、克服しようとあがかなくても、いいはずなのだけど
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