http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20110903#p1
いい歳して「女の子」「女子」と自分(たち)のことをいうのはどうなのか、という声。
自分たちを女子というなんて恥ずかしくないのか? という煽り。たまにネットで見かける。
わたしはテレビや雑誌の多くを見ないからどのぐらい使われている言葉なのか知らないけれども、あまりにも使われているのだとしたら「まあ確かにちょとどうなのか」と思うところだし、メディアで男女が語られてろくなものになったことがないと思うから、その言葉自体がもはや誰かにとって挑発的に聞こえることもあるかもしれないな、と思うのだけれど、じゃあいざ自分が、今まで知り合って会話を交わしてきた同年代やそれ以下の女性、というものを、「女性」「女」と呼べるかというと、しっくりこない。
女が女を「女」と呼ぶのは、なんとなく突き放したような、批評的な、あるいは自虐的な意味を付与しているような感じが、わたしはする。女であるのに、女が「女」を語るとき、女は「女」を征服し、自分はさもそこで語る「女」から自由であるような目線を生んでしまう。女が女を「女」と呼ぶとき、それは「わたしたち」を語る言葉には、なかなかならないように思う。同時に、「わたしってダメな女なんだよね」というように、自分はこういう女だ、という言い方は、特権的な響きを感じさせる。「女」、に中心がないからだろうか。
とはいえ、男性にしたところで、「僕はこういう男なんだよ」という台詞には、よくも悪くも傲慢な自己肯定を感じさせなくもない。内容によっては聞くほうはちょっと下がってしまうかもしれない。
「男子の本懐」というように、女子という言葉はそもそも何歳になって使ってもかわわない、と言われたりもしているようだけれど、女性たちが互いに集まることを「女子会」と呼んだりすることがある程度定着したのは、自分たちを女の子である、女子であると主張したいというよりはむしろ、互いに「女子」という響きの押し付けがましい甘えを利用して、垣根をくずしてなれあえる可能性を感じたところがあると思う。「女子」という言葉は思えば最初からそういう感じで、絶対にバラバラにしかなりえない個別の少女たちををとりあえず便宜的にくくりつけておける都合のいい言葉であって、自分で自分のアイデンティティをあらわす言葉ではなかった。
だから、参加者が20代から80代という幅でも、「女子会」として集まることができる、というのは、けっこうすごいことなんじゃないだろうか。これが「ふれあい会」とか「女性会」だったら誰も参加しないだろうと思うわけで。
私も最近、50、60代女性と三人で「女子会」をした。血縁も地縁もない。「ちょっと3人で会いましょうか」「お茶でもしませんか」よりはしっくりくるものがあった。
全員が、「女子会ってねぇ(笑)」みたいな感じだったけれど、この(笑)をつけていられるあたりが、とても女子的だなあ、と思うところ。
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