上本町で降りる。
休日のビジネス街は風通しがいい。寒いけど晴れきっていた。
早めに用事が済んでしまったので、せっかく体が空いたなら町歩きをしようかと堀江のほうへ向かって歩き出す。通りがかったコーヒーショップでブレンドをもらい、すぐに逃げていってしまう熱を追いかけて飲みながら歩く。
道が広くて歩きやすい。低いヒールにスーツ姿の女性が、襟元にファーのマフラーをざっくりと巻いただけで、ベビーカーを押していく。
途中、朝の十一時だというのに、人でぱんぱんになっている狭い立ち飲み屋を路地裏に見つける。まわりに他に開いている店はない。
入れ替わり立ち替わりしている。もちろんお客さんは、この時間から飲んでいる正体不明のおじさんたちだ。しかし、失礼ながら、これまで見た中ではどんな町のどの店のおじさんたちよりそういう感じに見える。蒲田や赤羽、新宿……。ほぼ全員がお酒を持っていないほうの手に競馬新聞を、そうでない場合は煙草を持っている。近くにウインズがあるようだ。
人によってはこの店を店としては目に止めないかもしれない。怪しいごちゃごちゃの風景のひとつとして、永遠に風景のままかもしれない。実際、見てまず思ったのは、「これで店として営業しているということになるのか、すごい」だった。
立ち飲み屋というのは、そもそもははじめは、酒屋の店先で始まった商売なんだそうだ。お客が酒屋にきて、ビールとかカップ酒を買って店先で飲むのに、ちょっとしたつまみが出始める。
その店もどうやら酒屋だったらしい。というか中はほとんど酒屋だ。
業務用の冷蔵庫、コンビニでペットボトル飲料を並べておいているガラスのやつがお客さんの背後にどんと置かれて、中がビールとワイン埋まっている。
ちなみに店内の光源はそれだけのようだ。
奥でブラウン管のテレビがチカチカ光っている。
店先に並んだいくつかの自動販売機ももちろんビールの自動販売機で、中から出てきたおじさんが補充していく。買って、飲みながら路地裏を歩いていく人を想像するうちに、通りすがりのおじさんが小銭を入れる。ごとんごとん。
ロング缶。
奥で和服に割烹着姿の中年女性がこまごまと動いている。
真っ赤な口紅の塗られた口角がぴっと上がっている。おろした髪のはしっこがはねていた。
大衆居酒屋も随分寄ってきたけど、この店に入ったら日本でもう入れない店はないんじゃないかともちょっと思う店だった。たいていの「入りにくい感じ」な店には入れるようになったと思う。
でも「牛丼屋に一人で入れるかどうか?」みたいな会話なんてメタから無意味にしてしまうたたずまいだ。
酒屋の入り口が立ちのみ屋になっている店も寄ったことがある。でもそういったものとも一線を画している。
自分一人や、連れが女性だったら入ろうとは思わないと思う。
しかし同行者は、ちょっと入ってみたそうにしている。でも場違いさを感じて抵抗があるみたいだ。
入ったら店やお客さんに悪いんじゃないかなあ、という感じ。
女性なら、「連れてこられたがわ」の顏をしていられるけど、男性は入ったら入った人間として様子を整えなければならないから、気後れもするのかもしれない。
その達観したたたずまいに圧倒されていると、中から出てきたお客さんの一人が
「おお、あんたらどないしたんや、何しとるんやそんなとこで」。
「こういうお店に入ってみたいなと思って見てたんだけど、ちょっと敷居が高い気がして入りにくいなと思ってたんだ」
「なんや、ここの敷居が高いなんてわけがあるかいな。どこに敷居が高いんや! この店はいいで! 素晴らしいで! 一番高い美味い酒頼んでも……250円や! 250円でええ酒が飲めるんやで〜」
ご機嫌だ。
そしてコテコテだ。
「おじさんまるでこのお店の客引きみたいだね」
「わしはただの客やで〜もう一杯やってきたもんでな〜」
「おじさんはこれからどうするの?」と聞くと、
「わしか? わしは今からコレや、パチンコや〜」と、金歯を見せて笑って細い道を挟んで目の前のパチンコ屋の裏口に吸い込まれていった。
徹底している。
思い切って入り口を開けると、中のおじさんたちが振り返ってちょっと静まった。
「注文どうしたらいいですか? 先払いですか?」と聞くと、カウンターらしきものの中でおじさんが五度ほど首をかしげる。ようはほとんど動いていないということだけど。
「勝手に取っていいの?」と聞いても、そのままだ。
高まるアウェイ感。
横にいたお客さんの一人が、「ここはアメリカ式やで〜」と笑って言ってくれる。
アメリカ式。
アメリカ式かあ。
エビスとサッポロ黒ラベルをとって小銭をカウンターに置くと、しばらくしてひっそりと小銭が回収されていた。
カウンターの中のおじさんには気配がないらしい。
「注文いいですか?」と聞くとおじさんはどこかよく分からないところを見て、震え過ぎているように見える手でなにやら作業中。
聞こえてるのかさえ不明なまますじ肉ポン酢と塩辛を頼むと、奥のほうへ行ってしまった。
注文が通ったのかどうかよく分からない。ちなみにまだおじさんの声を全く聞いてない。
目の前には缶詰めが山積みで、奥にはカップ麺が山積みだ。顏をあげると、上の棚に謎の茶色い瓶が十本ほど並び、かなりざっくばらんにガムテープが張られた上に黒いマジックで「セロリ」「にんにく」「しょうが」「アロエ」などと書かれている。
自家製酒らしい。
セロリ。
5分もすると状況が分かってきた。
多分ふだん、注文について聞いてきたりする人はいないのだ。
もっとお客さんは適当だ。勝手に飲んで後で缶を数えて払う人もいれば、先に払ってしまう人もいる。手を伸ばして缶詰めを自分で開けている人もいる。
隣にいるおじさん三人は、最近の風俗やキャバクラのサービスと昔の違いと、競馬の話をずっとしている。
「昔は横に座って喋るとこでも、ちょっと奥いきましょか〜とかあったんやで」「俺のころはなあ」「そないか、じゃああれか、今ようやっとるあれはキャバクラと変わらんのやな」「変わらん変わらん」「なんやそうかいな」
なにかがこの店に凝縮されている。
おじさんがレンジに放り込んでおいたまま放置していた小鉢を、奥から出てきた女性が出してくれる。あ、すじ肉ポン酢。
おじさんは女性に何か言うとそのまま奥に上がっていってしまった。
おじさんの右手にお酒の缶が見えたのは気のせいかなぁ。
どうも女性がお手洗いか何かに行っている間だけ店に出ていただけらしい。
あのおじさんは絶対に普段店を女性に任せっぱなしだと思うな。
中年女性はおじさんとは対極の明るい開かれた笑顔で、「楽にしてね〜、うちで緊張なんてしないでね」「なんか足りないものない?」と話しかけてくれた。
すじ肉ポン酢は美味しかった。
これまでいろんな風にすじ肉を炊いたのを食べたけど、凄い旨味。使っているお肉は国産だろうけど、油がたっぷりついているところを使っていて、それがイヤじゃない。ポン酢はきつい味がして、しっかりと甘かった。
塩辛も、お手製ではないけど甘味がひかえめでこゆい。たっぷり入っている。
突然世界のスイッチが切り替わってしまったような、異邦人になったような、ムーンサイドに入ってしまったような刺激を感じながらすじ肉をつまむ。
子供のころ、祖父母の家の近所にあってよく通った米屋件駄菓子屋を思い出す。
売っているものが少なくて、駄菓子もちょっとしなびていて、いるのはいつも大人たちで、子供ながらになんだか自分にピタっとこないな、と思っていた。
祖母に連れられて、軽い居心地の悪さを感じながら中に入った。買ってもらったお菓子を開けて食べるときの、なんだか緊張したときめき。
そのうち好きなお菓子がいくつもできて、自分から祖母に行くのをねだるようになったけれど、やっぱり自分の本当の居場所のようには思えずに、いつか行かなくなった。
そう古くない店なのに、隅の方にふしぎな闇を感じたあの店は今はまだあるのかなあ。
今になって、あの店先でお酒を飲んでいるみたいな違和感だ。
さくっと飲んで店を出る。美味しいけれど、不思議とたくさん食べたいとか、長居したいとか思わない。けれど満たされていないわけでもない。
会計は830円だった。
それにしてもアルコール中毒者を集めそうなお店だった。
***
堀江からアメ村へ歩く。
セールの時期だから、前に来たよりずっと人が溢れている。
以前来たときには閉まっていたセレクトショップも開いて、路上には思い思いの格好をした人たちが歩いている。
幅がある。
ざっくばらんな格好の人もいれば、奇麗目な人もいるし、威圧感がある人もいる。久しぶりに目の回りが真っ黒な女の子と何人もすれ違う。金髪の子も多い。子連れの夫婦もタフに路地を歩いている。
同行者が前に見て気になっていたという奥まったところにあるヴィンテージ家具の店に入る。
雑居ビルの二階をまるまる使っている家具屋は、外が嘘のように静かだった。
音楽もかかっていない。
それぞれの部屋の扉はとっぱらわれている。
それぞれの部屋に、今は使われていない、積まれた家具の山。
家具屋に行くと、たいてい自分が使うには不向きに思うことが多かったけど、この店で、これまでどこかで丁寧に使われただろうその丁寧さの名残を表面に感じさせる家具が積んであるのをひとつひとつ見ていると、自分がふと繋がっていく感じがした。
使われるための家具が集められているのが肌で分かる。
どこかに自分のこれからの人生のための家具があるような気がしてくる。そう長くはないそっけない過去を連れて。
よくわからないけれど、北欧中心なのかな。
わずかに忘れられたように、片隅のテーブルの上にカップとソーサーが並んでいた。ほんの4、5セット。これしか売っていないようだ。近いデザインのものを奈良のショップで見た。
空き家のような雰囲気に、誰もいないと思ってまわりを見回すと、眼鏡をかけた、ヒゲのカッチリと細身の男性がひっそりとレジにいてどきっとした。
目が会うとほんのわずか表情を緩めてくれて、またそのまま静かになった。
十歳を過ぎたぐらいの小柄な男の子二人が、身体に対してずいぶん大きな、エクストララージの福袋を背負って歩いていく。
二人とも体にジャストサイズのジーンズをきりっとはいて、きれいなシューズをはいている。カラフルなダウンジャケットの前を開けて、中には自分で選んだんだろうブランドのシャツを着ていた。
キャップをかぶって歩く目に迷いがない。
きりっとして、町に来慣れた様子で歩く姿がかっこいい。
友達なんだね。
次はどこの店に行くのかな。
羨ましいな。
その小さい背中を見送っているうちに、寒くなってきた。
今年の寒さに対応できるアウターを持っていないのだ。
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